それなりにたくさんある。
算数に「まほうじん」という問題がある。
典型的なものは、3×3の9マスにいくつか
数字が入っていて、縦、横、斜めの合計が
すべて同じになるというヒントを元にして、
空いているマスを埋めていくというもの。
私は、生徒たちに「一生に一度しか
楽しめない問題やで」と伝える。あんなものを
教えられるというのは不幸以外の何ものでもない。
その答えを自らの力で解いた子供は、
その問題を見るたびに「最初から
自分で解けたで」となる。
2学期の通知表で、長男が「身の回りの
整理整頓をする」で「がんばりましょう」を
もらって帰って来た。それを見たときの感想は
「先生はよく見てくれているな」というもの。
ランドセルの中も教科書の上下がぐちゃぐちゃだし、
家でも片付けができずによく探し物をしている。
私はそんなことはなかったので、どんな神経してんだ、
とずっと思っていたが放っていた。
いつか気づくことを期待しながら。
教科ごとに教科書とノートをセットにすること、
1時間目のものから順に並べること。
プリント類はクリアファイルに入れて整理するために、
100円ショップに連れて行って、仕切りが多いものを買って、
それぞれに「国語」、「算数」などのシールを貼り、
実践して見せれば、問題は解決の方向に向かうだろう。
しばらくはチェックが必要かもしれないが、
それほど難しいことではない。
でも、こんな単純なことすら親の手が必要なのだろうか。
大人になっても片付けができない人がいる。
その中のかなりは、子供の頃に一生に一度を
終えているはずだ。親の手を借りるから、
元に戻ってしまうのだ。心が伴わない行動は
そうなる運命にある。
長男には「あんなので『がんばりましょう』はかっこ悪いから
そろそろちゃんとできるようにしたら」と声だけは掛けておいた。
現在、かなり伸び悩んでいるが(まだ伸びしろがあると
自分では信じているので現在形にしている)、
私は小さい頃、何かと人より早くできた方だった。
でも、蝶々結びはそうではなかった。
興味がなかったのだ。それができなくても
困ることはなかったから。私にとって困ることと
言うのは人に負けることと同義であった。
もちろん、井戸の中での話である。
1年生の運動会で、ひもで筒状のものを結んで
ゴールまで走るという競技があった。
途中でほどけてしまうことがあり、その場合は、
結び直しでタイムロスして1位を取れなかった。
どうしても1位を取りたかったので、
運動会を見るために前の晩に泊まりに来てくれた
祖母にお願いして、お茶っ葉の筒を使って
何度も何度も練習した。その効果は抜群であった。
もし、あの種目がなければ、いつまでできない
ままであったのだろうか。
こういうものを成功体験と言う人がいるがそうではない。
やればできるではなく、ちょっとやればできる、
という誤解を生んでしまうからだ。
大人ならその違いが分かるが、子供はそうではない。
だから、ちゃんと「たまたまうまく行っただけで、
本当に大事なのは時間をかけて・・・」
と補足してあげないといけない。
ちなみに、横にいる年長の二男に「蝶々結び
できるの?」と聞いたら、「できない」と
返って来た。この前も、プールでコーチにやって
もらったらしい。自分で頼んでいるのだったら
よしとしよう。それができず、水着がずり下がっても、
気にせず頑張って泳いでいたら、それはそれでいい。
それが原因で泣いていたら許さないが。
二男はもうすぐ1年生なのだが、オムツが外れない。
たっぷりおしっこをし、起きてもそのまま遊んで
いたりするので、妻は「気持ち悪くないの?」と
怒りながら聞くのだが、答えは分かりきっている。
YMCAのデイキャンプ(日帰りの活動)が大好きで、
これまではお泊りキャンプも喜んで参加していたのだが、
1月にある雪遊びのお泊まりには「行きたくない」と
言い出したので理由を聞くと「オムツがカッコ悪くていやだ」
とのこと。きっと、これまでは周りに仲間がたくさんいたが、
徐々に減ってきたことに、どこかで気づいたのであろう。
「そんな理由で行かないのはもったいないから行ってきな。
もし、恥ずかしいのならそれまでに頑張っておねしょ
しないようにしな」と1ヶ月ほど前に伝えた。
この1ヶ月、毎晩たくさんおねしょをしている。
それを頑張っているんだろうと思わせるくらいに。
勉強以外の例を挙げてきたが、勉強も同じだ。
Aということができないと次のBに行けないから
どうにかしてAを入れ込む。そして、Bはさらに強引に
入れ込む。1ヶ月後、Aすらできない状態になっている。
時間をかけてでもAが習得できれば、自ずとBは付いてくる。
そうやってAとBがつながっていくのだ。
自分の頭で考える子供は、大人になってもそうだ。
頭を使わずに問題を解くことを身に付ければ、
決まったことしかできない大人になる。
前者は考えないことが苦痛で、後者は考えることが
苦痛となる。
何かを身につけることが遅くなると、その分他のことが
後回しになるという恐怖心に親はかられがちだ。
来年1年かけて、場合によっては2年、3年かけても
身につけるべき価値のあることは間違いなくある。
いち教育者として、ひとりの親として私はそう考えている。
今年も一年ありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
良い年をお迎えください。