2016年12月27日 08:58:25

Vol.283 一生に一度のこと

 一生に一度のこと、というのは
それなりにたくさんある。

算数に「まほうじん」という問題がある。
典型的なものは、3×3の9マスにいくつか
数字が入っていて、縦、横、斜めの合計が
すべて同じになるというヒントを元にして、
空いているマスを埋めていくというもの。

私は、生徒たちに「一生に一度しか
楽しめない問題やで」と伝える。あんなものを
教えられるというのは不幸以外の何ものでもない。

その答えを自らの力で解いた子供は、
その問題を見るたびに「最初から
自分で解けたで」となる。

 2学期の通知表で、長男が「身の回りの
整理整頓をする」で「がんばりましょう」を
もらって帰って来た。それを見たときの感想は
「先生はよく見てくれているな」というもの。

ランドセルの中も教科書の上下がぐちゃぐちゃだし、
家でも片付けができずによく探し物をしている。
私はそんなことはなかったので、どんな神経してんだ、
とずっと思っていたが放っていた。
いつか気づくことを期待しながら。

教科ごとに教科書とノートをセットにすること、
1時間目のものから順に並べること。
プリント類はクリアファイルに入れて整理するために、
100円ショップに連れて行って、仕切りが多いものを買って、
それぞれに「国語」、「算数」などのシールを貼り、
実践して見せれば、問題は解決の方向に向かうだろう。
しばらくはチェックが必要かもしれないが、
それほど難しいことではない。
でも、こんな単純なことすら親の手が必要なのだろうか。

大人になっても片付けができない人がいる。
その中のかなりは、子供の頃に一生に一度を
終えているはずだ。親の手を借りるから、
元に戻ってしまうのだ。心が伴わない行動は
そうなる運命にある。

長男には「あんなので『がんばりましょう』はかっこ悪いから
そろそろちゃんとできるようにしたら」と声だけは掛けておいた。

現在、かなり伸び悩んでいるが(まだ伸びしろがあると
自分では信じているので現在形にしている)、
私は小さい頃、何かと人より早くできた方だった。

でも、蝶々結びはそうではなかった。
興味がなかったのだ。それができなくても
困ることはなかったから。私にとって困ることと
言うのは人に負けることと同義であった。
もちろん、井戸の中での話である。

1年生の運動会で、ひもで筒状のものを結んで
ゴールまで走るという競技があった。
途中でほどけてしまうことがあり、その場合は、
結び直しでタイムロスして1位を取れなかった。

どうしても1位を取りたかったので、
運動会を見るために前の晩に泊まりに来てくれた
祖母にお願いして、お茶っ葉の筒を使って
何度も何度も練習した。その効果は抜群であった。

もし、あの種目がなければ、いつまでできない
ままであったのだろうか。
こういうものを成功体験と言う人がいるがそうではない。
やればできるではなく、ちょっとやればできる、
という誤解を生んでしまうからだ。
大人ならその違いが分かるが、子供はそうではない。
だから、ちゃんと「たまたまうまく行っただけで、
本当に大事なのは時間をかけて・・・」
と補足してあげないといけない。

ちなみに、横にいる年長の二男に「蝶々結び
できるの?」と聞いたら、「できない」と
返って来た。この前も、プールでコーチにやって
もらったらしい。自分で頼んでいるのだったら
よしとしよう。それができず、水着がずり下がっても、
気にせず頑張って泳いでいたら、それはそれでいい。
それが原因で泣いていたら許さないが。

 二男はもうすぐ1年生なのだが、オムツが外れない。
たっぷりおしっこをし、起きてもそのまま遊んで
いたりするので、妻は「気持ち悪くないの?」と
怒りながら聞くのだが、答えは分かりきっている。

YMCAのデイキャンプ(日帰りの活動)が大好きで、
これまではお泊りキャンプも喜んで参加していたのだが、
1月にある雪遊びのお泊まりには「行きたくない」と
言い出したので理由を聞くと「オムツがカッコ悪くていやだ」
とのこと。きっと、これまでは周りに仲間がたくさんいたが、
徐々に減ってきたことに、どこかで気づいたのであろう。

「そんな理由で行かないのはもったいないから行ってきな。
もし、恥ずかしいのならそれまでに頑張っておねしょ
しないようにしな」と1ヶ月ほど前に伝えた。

この1ヶ月、毎晩たくさんおねしょをしている。
それを頑張っているんだろうと思わせるくらいに。

 勉強以外の例を挙げてきたが、勉強も同じだ。
Aということができないと次のBに行けないから
どうにかしてAを入れ込む。そして、Bはさらに強引に
入れ込む。1ヶ月後、Aすらできない状態になっている。
時間をかけてでもAが習得できれば、自ずとBは付いてくる。
そうやってAとBがつながっていくのだ。

自分の頭で考える子供は、大人になってもそうだ。
頭を使わずに問題を解くことを身に付ければ、
決まったことしかできない大人になる。
前者は考えないことが苦痛で、後者は考えることが
苦痛となる。

何かを身につけることが遅くなると、その分他のことが
後回しになるという恐怖心に親はかられがちだ。
来年1年かけて、場合によっては2年、3年かけても
身につけるべき価値のあることは間違いなくある。
いち教育者として、ひとりの親として私はそう考えている。

今年も一年ありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
良い年をお迎えください。

2016年12月20日 14:14:19

Vol.282 お帰り組

 告白したその場で振られるのと、
無事に付き合えたものの1ヶ月後に
「やっぱり」と振られるのでは、
どちらが辛いだろうか。

断然後者であろう。天国から地獄という
落差が大きいせいではない。

 先に謝っておきます。
調子に乗って申し訳ございません。

2, 3週間前に、あるお母様から、
「A君が『やっぱり松蔭先生は偉大や』と
言ってた、とA君のお母さんから聞きました」
ということを教えていただいた。
謙遜することもなく
「気づくのが遅いですね。ガハハハハ」
と軽口を叩いていた。

現在中2の彼は、中学受験を終えてからも
通い続けてくれたものの、1年ほど前に、
通学で時間がかかり体力的にもきついという
理由などからやめることになった。

その代わりに家庭教師をつけるということであった。
家庭教師ほど外れる可能性が高いものもないのだが、
お父様の知り合いから「この人は大丈夫」という
先生を紹介してもらったとのことだったので、
それならうまく行くかな、というのがその時の
感想だった。

「こんなことがありまして」という感じで、
自分が褒められたことを前回のテーマにしようかとも
思ったのだが、他に書きたいことが出てきたのでやめた。
すると、前回更新した日にそのお母様から1年ぶりぐらいに
連絡をいただいた。面談をし、その場で復活決定。
学校での成績が振るわないので、どうにかして欲しい、
とのことであった。

家庭教師の先生の教え方が悪かったわけではないらしいのだが、
それよりも志高塾がいいと思ってくれたのだ。
このように、帰ってきてくれる子供たちが時々いる。

告白した時であれば、「けっ、俺のこと知りもしないのに」などと
開き直ることもできるが、1ヶ月後に振られるというのは、
中身を否定されたような気がする。

戻ってくるというのは、離れてみてその価値を再認識して
もらえたようで非常に嬉しい。
もちろん、ずっと好きでいてもらえるのが理想ではある。

 強がりじゃないといえば嘘になるが、子供たちの
役に立てているのであれば、「志高塾のおかげ」と意識して
もらわなくても一向に構わない。また、「戻りたいな」と
心のどこかで思ってもらえているのであれば、
時間的、金銭的などの物理的な要因でそれが実現しなくても、
それはそれで良い。

それに関することで言えば、以前に書いたが
「使われなかった枠」というのにも価値がある。
受験が近づいたときや、何かしらの要因で
急に何かをお願いされるときがある。
そのもしものときのために、枠をぎりぎり
いっぱいまで埋めずに少し余裕を持たせておく。

毎年、待機しながら立派に役目を果たし終えた枠が
それなりにあるのだが、今年はかなり少なくなっている。
でも実は、それが埋まってもまだ残っているのだ。

私はおそらく、多く見積もっても世間一般の社会人の
8割ぐらいしか頑張っていない。どうしてもと
いうときは、その残りの2割を使って枠を増やすのだ。
日頃は大事に温存しながら、誰に指摘されたわけでも
ないのに「でも、もし頑張りすぎて、大事な時期に風邪でも
引いたら元も子もないから」という言い訳を勝手にしている。

3か月前は、受験直前に我々のところで朝から晩まで勉強する
予定の生徒は2人しかいなかったが、徐々に増えて5人になった。
気づかないうちにその2割に手をつけている気がしてきた。

つべこべ言わずに頑張るとしよう。

2016年12月13日 15:57:52

Vol.281 If I were

 開校当初、記述問題の採点基準が
分からず感覚で点数を付けていた。
大人になってからはもちろんのこと、
学生時代ですら、まともに国語の勉強など
して来なかったのでそれ自体を意識した
ことがなかったのだ。

それから10年、今はどうか。
当時とさしたる変化はない。
大手塾のテストの解説でも見れば
分かるのだろうが、興味が湧かないのだ。
それでもやるのが仕事と言うものかも
しれないが。

 勉強に限らず人に教えるとは
正しい答えを伝えることではない。
正しい答えに本人が自力でたどり着けるように
導いてあげることである。

うまく打てない子に、こうやったら
いいんだよ、と手本を見せてもその子に
変化が見られなければ意味はないのだから。

 開校してから3年ぐらいは読解問題を
生徒に積極的にさせることはなかった。
受験対策として、最低限やっていたというのが
正直なところである。
今でこそ、考える力を付けるための
1つの有効な手段であると認識しているが。

読解問題がそのような位置づけだったので、
点数を取らせるということよりも、
作文の時間を割いてそのようにしているので、
作文と同等に考えさせるにはどうしたら
いいのか、ということに頭を悩ませた。

その結果、選択問題は消去法で、
記述問題は自分の言葉で書かせることを
徹底させた。

その後に知ったのだが、中学受験における最難関校の
記述問題はすべてそのようにしないと対応できないのだ。
考えてみたら当たり前の話だ。
優秀な生徒を集めることを目的にすれば、
そうでない生徒とのふるい分けが必要だからだ。

10点の記述問題があれば、確実に3点は、
そこから1点、2点と積み上げて、できれば
7点ぐらい取らせるなどというせこいことは考えない。
10点を目指すのだ。点数のつけ方は、かなり極端に言えば、
オールオアナッシングである。さすがに0点にはしないが、
不十分なものはガバッと点数を引く。2点ぐらいかな、
と思っても、3点、4点とマイナスするのだ。
すると、
「えっ、そんなにも引かれるの?」と
生徒は文句を言うが、そこで中途半端に点数を
与えれば、それに満足し、一向に10点を目指さなく
なってしまう。

そういうスタンスで教えていたら、記述問題が
中心の公開テストなどで生徒たちがそれなりの
点数を取れること、中学受験でも結果を教えてくれる
ところでは、結構良い点を取れていることが分かった。
それで採点基準のことが気にならなくなった。

自己弁護をするために、随分と紙幅を費やした気がする。

 進学塾の授業では中々国語が伸びないという
理由で我々のところを訪れる方もそれなりにいる。
そちらが一対多なのに対して、我々は一対二である。
圧倒的に有利な立場を利用しているだけなのに、
「彼らの教え方が下手くそで」などと言うのも
憚られるので、
「先生の力量の問題ではなく、一対多という
システムだから無理なのです」
というようなことを伝えてきた。

そこで、初めて、本当に初めて
自分がその立場であったらどのように
教えるだろか、ということを考えてみた。

その時でも基本のスタンスは同じである。
10点の問題は10点を取りに行くのだ。
もちろん、模範解答を伝えるだけでは
ダメだし、もう少し丁寧にそこに辿り着くまでの
プロセスをデモンストレーションしても
大した效果は見られないだろう。

私なら、ある問題に対して生徒が実際に書いたうちから
5人分ぐらいの解答をピックアップし、それらを並べて
プリントしたものを配布し、それについて私自身が批評する、
もしくは子供たちに感想を述べてもらうなどするだろう。

模範解答に近くても、「要はどういうことか」を考えず、
ほぼ抜き出しに近い形で答えただけのものには、
「7点はもらえるかもしれないが、これでは
いつまでたっても残りの3点は絶対に埋まらない」、
逆に注目するところも正しく自分の言葉で書こうとした
ものには、「表現が適切でないところがあったりするので、
5点しかもらえないが、これを続けていたら
10点になる日はそれほど遠くない」というような
ことを伝えるだろう。

1回で終わりではなく成長も見ていくので、抜き出していた
生徒が勇気を持って自分の言葉で書いたとする。
うまく行かず3点しか与えられないものに
なっていたとしても、そのチャンレンジを褒める。
「これで10点が近づいたな」と。

 そのような状況で教えることなどないという
前提で好き勝手書いているので、まったく
有効な手段ではないかもしれない。
でも、まあ良しとしよう。
だって、私は一対二でしか教えないのだから。