2016年11月29日 10:19:52

Vol.279 それぞれの中学受験

 中学受験が近づいてきたとき、
単純に考えて我々の対応の仕方としては
3パターンある。

1つ目はシンプル。
基本的に何も変える必要がないというもの。
週1回通っているのであれば1回、
2回ならば2回のまま行く。
すべての生徒がこれに当てはまるに
越したことはない。

2つ目はマイナーチェンジが必要な場合。
たとえば、週1回なのを2回に増やしたり
冬休みから受験直前までに集中的に授業を行う。

この場合に注意すべきなのは、あくまでも
全体のバランスを考えなければいけないと
いうことである。

国語を教えているからと言って、国語の点数UPの
ことだけを考えて、授業数を増やしましょうというのでは
提案とは呼べない。
国語が10点上がっても、そこに多大な時間を割いた分、
算数の点数が15点下がっては意味がないからだ。

私としては、国語が10点上がって算数も5点ぐらい
積み増せるようにしなければいけないと考えている。
算数を教えずにどうやってそれを実現するのか、と
問われれば論理的に説明できる自信はないのだが、
私はそのようなものをイメージし、実践できていると
勝手に思い込んでいる。

思い込みで点数が上がれば苦労しないわけだが、
教えている私が「大丈夫かな?」と思いながら
子供たちに接しているより、「間違いない」と
根拠のない自信を胸に子供達に声掛けしている方が
プラスに働くに違いない。
ふむ、単なる精神論になってしまったが、
今回もこの信じ込みパターンを採用する。

 そして、3つ目。これは大幅に手を入れないと
いけないので非常にハードである。
誰にとってハードかと言えば、子供もそうであるが、
それ以上に親にとってである。

このパターンは進学塾の授業を削って、
我々の授業の回数を増やすことになる。
しかも、2つ目をマイナーチェンジと
表現しているので、こちらはメジャーチェンジ、
つまり大幅な変更を要する。

親にとっては、我が子が進学塾で皆と同じことを
することである一定の安心感が得られるので、
そこから離れるだけで不安が増幅される。

でも、でもである。これまでその中で
同じことをやってきてうまく行っていないので
あれば、残りわずかな期間で好転する可能性が
あるのかということである。
私は、親御様に単純にそのことを問う。
大抵は受け入れられないだろうなと思いながら。

実際、今年もこれに当てはまる生徒が1人いた。
親御様が私の提案を受け入れてくださり、
進学塾の方に、授業の回数を減らす旨の電話をされた。

詳しい経緯はよく分かっていないのだが、
事務の人にそれを伝えたところ、後ほど担当の先生が
慌てて電話をしてきたとのこと。
「そのような判断をして大丈夫ですか?」という確認を
するために。

それを受けて、もう一度親御様から私の元に連絡があった。
「『志高塾の松蔭の提案だから間違いはない』と
言ってください」と格好よく決めゼリフを
吐きたかったのだが、そこは堅実な一手を。
それに「松蔭って誰やねん」、「志高塾なんて聞いたことないわ」
と言われでもしたら激しく傷ついちゃうので。

「現在高2のA君、高1のB君が通っていた
塾ですと伝えてみてください」とお願いした。
その効果は抜群であった。
その先生が、2人のお母様のことをご存知で
「あのお母様たちが選んだ塾の先生が言うのであれば」
ということで、それによって難なく話が通ったとのこと。
「志高塾の松蔭」を出すまでも無かったのだ。
わーはっは。

その先生曰く、進学塾ともめる形でそのようなことを
伝える親も少なくないそうなのだが、上のお二方は
そこを上手にやっていたのだ。そして、それが信用につながった。
私はそんな事実を知る由もなかったのだが、
その2人のことを知る先生であれば大丈夫だろうと
いう確信があった。ちなみに、A君、B君は、
2つ目のマイナーチェンジのパターンであった。

私は時々「良い親御様に囲まれている」ということを
口にするのだが、この一事はそのことの1つの証である。

「名前を使わせていただきました」とA君の親御様に
事後報告すると「使えるのであればいくらでも使ってください」
とのありがたいお言葉をいただいた。

なお、最初の時点でその6年生の親御様には、とにかく
進学塾ともめないように「塾の授業の質が悪いから」
と言うことではなく「これまでうまく行っているとは
言えないので、個別にかけてみたい」という方向で
話を持っていった方がいいということはお伝えした。
もめるとそのしわ寄せは間違いなく子供に来る。
「できもしないのに、授業の回数を減らしたら
絶対合格できへんぞ」といった脅しの形を取って。

常に心がけてはいるが、いつも以上にこの時期は、
いたずらにお母様の不安を煽らないようにしなければ
ならない。それが子供に伝播してしまうから。
それは事実を包み隠したりねじ曲げたりすることとは
全く異なる。我々の役目は「問題を報告すること」ではなく、
「問題を解決するために手を打つこと」なのだから。

1ヶ月前は受験生に対して心配だらけだったのだが、
最近は明らかな手応えを感じ始めている。
残り1ヶ月半で彼らがそれ以上にレベルアップすることは
ゆるぎのない事実である。

受験生以外にも同じようにエネルギーを注ぐことを
念のために付記しておく。

2016年11月22日 08:52:18

Vol.278 不動産屋?

高校2年生の女の子が、
「都市の景観を損ねるような建物の建造を禁止するべきか」
というテーマで800字程度の作文をしたので紹介する。

@都市の景観を損ねる建物の建造を禁止すべきだ。
私の学校は幸運にも世界文化遺産として有名な東寺の
真横にある。学年が一つ上がるごとに教室のある階が
上がって行き、より広範囲の街並みを俯瞰できるようになる。
授業中、ふと窓を見やるとそこにあるのは毎日少しずつ違った
趣のある景色と一点の明らかに異様な建造物だ。
 
京都タワーだ。灯台をイメージしたという塔の存在は
昼夜問わず周りの風景を台無しにし続けている。
アレさえなければなぁ、といつも思ってしまう。

A京都には、年中多くの観光客が訪れる。
彼らのお目当てはもちろん古都・京都の文化財だ。
もし金閣寺の後景に、そびえ立つ京都タワーが見えたら。
想像するだけでも恥ずかしい。
パリの景観は条例で厳しく取り締まられていて隙がない。
タイムスリップしたような錯覚に陥った。

B伝統を守ろうとする一方で、近代化は進んでいく。
学校と京都駅の間にコンビニが二軒ある。
でも、なぜか洛南生が利用するのは片方のみで、
かくいう私もその一人だ。無意識に行っている
選択の理由を分析してみると、それは外観にあった。
人気のない方が通常デザインなのに対して、
もう1つは京都限定のものでなかなかしゃれた茶色だ。
このことに気づいてからもう一度見比べてみると、
なんだか不人気店の方は周りから浮いた感じがした。
調和がいかに重要か実感した。

Cそもそも私たちは昔と今を切り離しすぎているきらいがある
現在とはあくまでも過去と未来の中継地点であり、現在自体に
特に価値はないとみなしてしまっているように感じる。
七五三や成人式で思い出したように着物を着だす。
過去に築き上げたものをあくまでも伝統とかいった堅い言葉を
使って変わりゆく今と切り離して都合よく利用していくのはおかしい。
国内外でどんどん新しいものが開発されていく中、
それらを日本古来のものに合わせて取り入れる、そうすれば
未来で讃えられるようなものが今できるかもしれない。
そのためにはまず、歴史を完全に潰す勢いの建物の建造は
取り締まるべきなのだ。(終)

 原文にほとんど手を加えていない。
たとえば、
「パリの景観は条例で厳しく取り締まられていて隙がない。
タイムスリップしたような錯覚に陥った。」
の部分は最初「〜陥る。」となっていたのだが、
「実際に行って感じたんやろ?それやったら過去形にした方が
実際に行って実感した、ということが伝わりやすくなるで」
と指摘して添削の際に少し変更したが、大抵はそのレベルの
修正にとどめている。

通常、冒頭に「都市の景観を損ねる建物の建造を禁止すべきだ。」
というような結論を持ってくると、その直後からだらだらと
そのように考える理由が列挙されて、リズムのない文章になって
しまうのだが、そうはなっていない。
また、締めの一文も同じような内容になっている。
これもない方がすっきりすることが多いのだが、
最後に改めてそれを持ってくることで文章が引き締まっている。

うまく話を転じながら展開していくことで、上のようなマイナスに
作用しかねない要素をうまく処理しているからだ。

彼女はいつも書き出してから書き上げるまでの時間が非常に短い。
しかし、今回は3回の授業にまたがって仕上げた。
全体の構成に関してもよく練っていた。

そのことを指摘すると、「いつも先生に言われていることを
頭に入れながら取り組んでみました」という答えは返って来なかった。

これに取り掛かる前に見せた一学年上の高校3年生の作文を
読んでインスピレーションを得たとのこと。
私が彼女の親御様からいただいているのは授業料ではなく、
仲介手数料なんじゃないか、という気がしてきた。
次は誰と誰を結びつけようか。

2016年11月15日 16:24:02

Vol.277 「長所を伸ばす」のか「短所を補う」のか、はたまた

 先々週から始まった面談も残すところ数人となった。
面談を終えた5年生の男の子のお母様から丁寧な
コメントをいただいたので、今回はそれに対する
返事になるような文章を書くことにする。
そのお母様は確かブログを読んでくださっているので。

 彼の課題は「人の話を聞けるようにすること」である。
何か尋ねると「いや」、「でも」という枕詞がついてくる。
本人は無意識なので、単なる口癖と言ってしまえば
それまでなのだが、プラスに働くことはないので
直した方がいい。

そう言えば、小1から通い続けてくれている
現在中3の女の子も「でも」、「だって」に加え、
まだ何も聞いてないのに「だからぁ」などと言っていた。
その度ごとに「うわっ、出た」と突っ込んでいたら
最近少しはましになった。相変わらず屁理屈はこねまくるのだが。

面談で「もう少し話を聞けるようになった方がいい」と
私が話したので、お母様が彼にその内容を伝えたところ、
本人は「自分の意見を言って何が悪いのか」と
返してきたとのこと。

現在彼が取り組んでいるのは読解問題である。
そこに主観が入り込む余地はない。
日本の国語における読解問題は、人の話を聞くための
トレーニングなのだ。
志高塾を開校して数年後、どのタイミングで何がきっかけで
そのことに気づけたのかは分からないのだが、
「そういうことだったのか」と自分の中のモヤモヤが
一瞬にして消え去った。

私が子供の頃、「国語では自分の意見は言っては
ならない」というようなことを聞かされていたが、
その理由が判然としなかった。そもそも、それを説明された
記憶もない。疑問に思っていたのであれば自ら質問すれば
いいのだが、そういう気すらも起こらなかった。
それぐらい私にとって国語は面白くないものであった。

自分自身が心の底から納得できたので、それまでは
受験対策として最低限にとどめていた読解問題の
分量も増やすようになった。作文と読解問題は、
言葉を介した思考力を養うための両輪なのだ。

 話を戻す。誰の話を聞くかというと、
それは筆者(もしくは作者)のではない。
問題作成者のそれである。
時々、小説の作者が自分の文章が使われた問題を解いても
正解できない、ということが取り上げられたりする。
それはそうである。そもそも彼らは創作する人であり、
基本的には、それぞれが自由に解釈してくれて構わないと
いうスタンスなのだ。

一方で、読解問題はたとえ記述問題であっても、この部分に
関して8〜9割の人はどのように考えると思いますか?
ということを問うているのだ。だから、正解を見せられて
「自分はこんなこと思わない」というのは説明になっていないのだ。
また「こういう風なことが言えないこともない」というのも、
残り1, 2割の人の考え方なので答えとして適切ではない。

 「話を聞く」とはどういうことか。
まず、相手が何を言っているのかを正確に掴むことである。
それだけでは不十分で、次の段階として
なぜそのようなことを言っているのかを
適切に把握しなければならない。

読書をよくして、読解問題ができる子供というのは
概して上のようなことができるのだ。
くどくどと説明しなくても、こちらの意図を汲み取れるのだ。

私は彼に対して結構強く「言われていることを
ちゃんと理解しなさい」と指摘してきたのだが、
その1つの理由として、自分の子供の頃と似ていると
いうのが挙げられる。

聞く力がなかった私は大人になってからも随分と苦労した。
苦労はたくさんすればいい。ただ、肝心なのはその中身である。
聞く力があれば、もっと上質の苦労を体験できるはずなのだ。

「長所を伸ばす」のか「短所を補う」のか。
指導者が直面する問いである。
そのどちらでもなく「長所を生かす」というのが適切で
あるような気がする。
聞く力を養うことで、自らの意見にも幅が出てきて、また
闇雲に自分の思っていることを主張するのではなく、
どこでどのような形でそれを伝えるのかというのがわかってくる。

 お母さんに指摘されて言い返した彼。
面談後、初めての授業では、「でも」を封印して、
言われていることにいつも以上に耳を傾けていた。
これを続けていれば今は意識的だが、
いつか無意識でできるようになる時が来る。
その時には大きく成長しているはずである。
がんばれっ!
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