2016年10月25日 13:51:24

Vol.274  ファイルが教えてくれること

中高一貫校に通うできる生徒ほど国語の
ファイルをちゃんと持ってくる。

持ってこない生徒は意図的な場合もあれば、
そうでない場合もある。

意図的な生徒の言い分は「重いから」というもの。
重くはないが、確かにかさばるとは思う。
そうでないというのは、単なる忘れ物と
いうことである。

前回の授業で書きかけの作文や解きかけの読解問題の
プリントなどはこちらで預かっているので、
別にファイルを持ってこなくても授業に大きな支障はない。
そして、その日取り組んだ分を、クリアファイルにでも
入れて持ち帰り、帰宅後にバインドすればそれで事足りる。

 その「重いから」なのだが、できる生徒の方が明らかに
かばんはパンパンなのだ。「重い」という生徒の2倍以上
詰まっていることも普通にある。
学校帰りに直接来るときの話である。

真面目で素直だから持ってくるわけではない。
自己主張は彼らの方が強い。ただ、要領はいい。

上のようなことからすると、彼らこそ家に
置いてきそうなものだが、不思議なことにそうではない。
これは、最初から予測できた傾向というよりは、
何年も教えていく中で、「そう言えばそうだな」と
分かって来たものである。

 先にも述べたように国語では大した問題は
起きないのだが、数学の授業で困ったことになる。
定期テストが近づいて来たときに、その対策を
しようと「学校のテキスト出して」と言うと、
「持ってません」と返ってくる。

「自分でできるから大丈夫です」といったように
余裕があるからそうなのではない。そういう生徒は、
テスト前日にまだ範囲を終えていないということが
普通に起こるのだ。

話はそれるが、3回解くというのが一般的な基準であろう。
まずは、すべての問題を1回解く。そのときに
解けなかったもの、解けたもののスムーズで
なかったものはもう一度解く。
それでも完璧でなかったものはさらに一度、となる。
そのようにしていても1ヶ月ぐらい経つと頭から
抜けていくのに、前日に慌てているようでは
どんどん分からなくなっていくのは目に見えている。

自分の高校時代を振り返ると、電子辞書が
禁止されていたのか、それとも紙のものが推奨されて
いただけなのかは定かではないが、後者を使用していた。
さすがに、それを毎日持ち帰るのは嫌だったので、
親にお願いして、学校用と家用と2冊買ってもらった。

英語を真剣に勉強していたわけではなかったし、
悲しいことに成績も良くなかった。
でも、少なくとも「辞書がないから勉強が進まない」
ということにならないようにはしていた。

厚かましくも自分ができる側の人間だったという気は
毛頭ない。手抜きで面倒臭がり屋だったが、それでも
大きくポイントを外さないようにはしていたとは思う。

 国語のファイル1つで、と思われるかもしれないが、
「重いから」という理由で持ってこなかったり、
毎週授業があるにも関わらず普通に忘れて
しまったりする生徒は、私が知らないところでも問題が
起こっているはずである。

嫌だなぁ、と思いながらもファイルを持ってくるようになれば
問題が解決するわけではない。
ファイルを持ってくることが自然になれば今抱えている
問題のいくつかに改善は見られるはずである。

成長の兆し、というのは案外そういうところに現れるものなのだ。

2016年10月18日 12:44:15

Vol.273 習い事

@できる限り多くの自由時間を確保する
A勉強と絡めようとしない
B創る

3つではなく4つでも、反対にBを除いて
@とAの2つだけでもいいのかもしれない。

子供に習い事をさせる上での私の基準である。

 子供は親を映す鏡である、と言われる。
当然のことながら親と子の結びつきは強い。
それは、先天的なものより後天的なものに
より明確に表れる。

親の意向が反映されるものの1つに子供の
習い事がある。私は子供が生まれる前から
生徒たちがどのような習い事をしているのかに
興味があった。少々大げさな表現を使えば、
そのことに関してリサーチをしてきた、
といってもいいのかもしれない。

そして、私が導き出した結論が、
「習い事で何かが大きく変わることがない」
というものである。
それよりも、親子の日頃の会話の方が
何十倍、何百倍も影響を与える。

 長男が2歳ぐらいの頃に大手の
リトミック教室に通わせ始めた。
個人でピアノ教室をされている親御様にそのことを
話すと「先生のような人があそこに通わせて
いるんですか」と返ってきた。

それは「先生のような立派な考えをお持ちの人が」
というのではなく、
「先生のようなこだわりを持っている風の
教育をしている人が」というような意味合いであった。
残念ながら。

実際、私にはこだわりがなかった。
少しでもいいリトミック教室を探そう、という
気持ちはさらさらなかったのだ。

0歳から始めた親子ベビースイミングもそうだが、
子供と一緒にできればいいぐらいの感覚しかなかった。

より良い環境を求める気持ちがないわけでは
ないのだが、やどかりが、体が大きくなるのに伴い
殻を脱ぎ捨て、自分によりぴったりのものを
探すように、まずはそこで力をつけ、
その枠に収まりきらなくなったら次のところを、
となる方がいい、というのが私の根底にある。

それは、環境依存になってしまうことへの恐怖感が
そうさせている。良い環境を求めることが行き過ぎると、
良い環境ではなければだめだ、ということに
なってしまうからだ。

環境は活かすものであって、環境が人を変えてくれるわけではない。
もちろん、環境の変化が大きなきっかけになることもある。
でも、それはおまけみたいなものと捉えた方がいい。

一度、その親御様が主催されたリトミックに
参加させていただいた。広々とした空間で、子供は
いつもより楽しそうに自由に動き回っていた。

そちらの方がいいのは明らかだったのだが、残念ながら
それは不定期(おそらく1年に1回程度)だったのだ。
それが毎週で、西宮北口ではなく豊中に教室が
あれば間違いなくそちらに通わせただろう。

そろそろ上の3つに触れる。
@は、要は習い事を入れすぎないということである。
できる限り自由な時間を作り、それを有意義に
活用できる人になって欲しいからだ。

長男は現時点では、専ら友達との遊びにその時間を
使っている。そして、そのことに私は満足している。
遊ぶ人が見つからなかったら、自分で友達の家に
電話して誘うことなども、良い経験である。

 東大生の多くが子供の頃にしていた習い事として、
スイミングとピアノが挙げられることがある。
もちろん、その2つをさせたからといって、
東大に行けるわけではない。その条件を満たしていて、
行けなかった人の方が断然多いのだから。

スイミングではなく体操教室、
ピアノではなくヴァイオリンではいけないのか。
そんなことはない。
そう考えると、運動と音楽ということになる。
音楽はさらに広げて芸術とするともっと選択肢が増える。

要は、スイミングとピアノは、子供の頃から
勉強ばかりをしていればいいわけではない、
ということを表しているのだろう。

もう少しAに関する話を続ける。
半年ほど前から長男が将棋に興味を持ち始め、
8月の誕生日のときに将棋盤を買ってあげた。
当初は毎日のようにやっていたので、
豊中にある将棋教室を調べたのだが、しばらくは
様子を見ることにした。案の定、その熱は冷め
最近では思い出した時に私を誘ってくるぐらいだ。
それがもう一度再燃して、もっとうまくなりたい、
となったときがその時である。

将棋のように頭を使うものだと、つい「これを
したら頭が良くなって勉強もできるようになるかも」
と考えてしまいがちだが、それは完全に切り離して
考えるべきであろう。

そう言えば、1年生の頃から通ってくれている5年生の
男の子は、将棋が好きで暇があれば1人で本を読みながら
練習をしているらしい。すごくいい向き合い方だ。

ちなみにその子の志望校は東大寺学園である。
彼らしいなと思わせる。かなりの読書家で、
そこを目指す理由の1つは「図書館の蔵書が豊富だから」
というもの。「全部読んでやる」と語っているらしい。
すごくいい学校の選び方だ。

 Bも含め、もっと書きたいことはたくさんあるのだが、
既に長くなってしまったので、気が向けば次回に続きを。
そうでなければまったく別の話題に。
どうなることやら。

2016年10月11日 13:09:16

Vol.272 成長体験のち成功体験

 先に前回の補足から。
徒競走で、年中の頃に4人中4位だったのが、
2年生で6人中1位になったことを例に挙げ、
それは成功体験ではなく、成長体験として
価値がある、というようなことを書いた。

飛び抜けて早い、もしくは遅いという場合を
除いては、誰と走るかによって順位は変動する。
恵まれた組み合わせになっていれば
4人中3位になれたかもしれないし、
逆に早い人がいれば6人中2位になっていたであろう。

我が子は、短距離において3年間で後ろから
3分の1のグループにいたのが前から3分の1に
移ったことは確かである。
ただ、その程度の話なので、そもそも成功体験と
呼べるようなものではない。

補足しようと思ったのは、この「そもそも成功体験
ではない」という部分。あの書き方であれば、
「成功体験ではあるけど、それよりも成長体験としての
価値がある」というように誤解されるようなものに
なってしまっていた。

くどいようだが、成功体験とは呼べないが、
成長体験としてはそれなりの価値があったのだ。

 親は形あるものを追い求めてしまいがちである。
そこで我々がそれに歩調を合わせると、
迷宮のより奥へといざなうことになってしまう。

7月に入塾した6年生の親御様が、
「次のテストで結果が出て、やってることが無駄でないと
感じてくれたら」というようなことをおっしゃっていた。
それに対して、「今のままではそうはなりません」
ということをはっきりと伝えた。

運良くいつもより良い点数を取れても、
その次のテストではまた元に戻ることは目に見えている。
それは「取り組み方が良くなったな」というのを
我々が感じられていないから。

国語が苦手ということで興味を持っていただいた。
国語は志望校の合格平均に大きく届かず、
得意な算数や理科も合格平均前後なのだ。
結局、9月から算数と理科もこちらで見ることになった。

算数と理科は、国語と比べて明らかにできがいい。
ただ、小問が3題ある大問であれば、(2)までは
さらさらっと進むものの、(3)になるとそれまでの勢いが
嘘のようにピタッと止まる。どうにか答えを出せても
一度間違えると、「考え直し」と伝えても、
先ほど違うと言われた答えを繰り返すなど中々正解に
たどり着かない。

その部分で改善が見られない限り結果は出ないので、
時間を掛けてでもそこをやりきらないといけないのだが、
帰り際に「今日はあまり進まなかった」と彼が漏らした。
要はどれだけ解いたかが重要なのだ。

「問題数は少なかったが、今までは教えてもらわないと
できなかったものが自力で解けるようになった」と
彼自身がそこに満足感を得られるようになれば、
結果は少し遅れてついてくる。

これは単なる理想論ではなく、持っている力を
ある程度発揮できている、点数に結び付けられている
生徒は概ねそういう感覚を持っている。

親御様としては10月のテストで少しでも結果が出ればと
考えているのだが、私としては10月、11月で下地を
築いて(7〜9月もそこにエネルギーを割いていたわけだが)、
12月に少なからず手応えを感じられるような結果を残して、
残り1ヶ月でジャンプアップする、というイメージである。

100点満点のテストで言えば、算数と理科はそれぞれ10〜15点、
国語は20〜30点ぐらい上げなければ合格にはたどり着かない。
合計で10から20点ぐらい上げればいいのであれば、
今の取り組み方の延長でもどうにかなるかもしれないのだが、
そうではないのだ。

困難な状況だが、どうにもならないものでもない。
ご両親揃って我々の考えを理解してくださっているので、
そこはとても大きな好材料である。

彼に限らず、やりがいのある仕事を与えてくれる
生徒たちに心からありがとうと言いたい。

実際にその感謝の気持ちを伝えると、ある生徒から
「先生、それ嫌味?」と言われた。
嫌味かどうかはさておき、やりがいのある仕事には
間違いない。