2016年09月27日 14:50:22

Vol.270 そしてその後

 「Vol.263 訪ね人は何処へ」で登場した彼は
8月末にもう一度私の元に相談に来た。
京都工芸繊維大学を第一志望とすることは変わらない
ものの、それは名目上の話であって、現実的には
芸術系の大学の建築学科を目指すことになった。
ただ当初予定していた大学ではなく、別のところを
選んだとのこと。
本人曰く「もう少し難しいところにした」とのこと。
学校見学にも行って気に入ったらしい。

いろいろ話していると、彼が
「先生は、どうせ僕が好きなことを一生懸命やっても
それを認めないですよね?」と言ってきた。
その日は、朝の8時から会っていて、その後10時から
17時ぐらいまで絵画教室に行って絵を描く、だから
僕頑張っているでしょ、ということを主張したかったのだ。

週に1回、通っている教室で7時間絵を描いて
頑張っているとは言わんやろ。
予備校で7時間授業を受けてもそのように言わんのと一緒や。
勉強で言うとどれだけ自習をしたかが大事なんだから、
家でも一人、毎日のように絵を何時間も描き続けているのなら
認める、と返した。
反論してこなかったので、家でそのようなことに
充てている時間はほとんどないのであろう。

また、前回は触れなかったのだが、彼はそもそも芸術だけで
食べていくのは難しいと考えて建築を選んだのだ。
だから、上のことに加えて、好きなことをやりたいんであれば、
建築ではなく純粋に芸術の世界に進めばいいんじゃないの。
それが好きなことをやるっていうことじゃないのか、と話した。

どの道に進むかを決断するのは難しい。正解があるわけではないので。
一見まずい選択をしたようでも、振り返ればあれが良かったのかな、
となることもある。
私の役割の一つは、これを選んだ方がいい、と示すことではなく、
彼の話の中に生じている矛盾、ほころびについて言及し、
「言っていることずれてるよ」と指摘してあげることだ。
後は、それを本人がどう感じるか。

ぼこぼこに言われることを分かった上で、2回も私の元を
訪れたことは評価できる。そのことは本人にも伝えた。

 別の高4、いや高3の生徒が「無事、内定もらえました」
と先週の金曜日に電話をしてきてくれた。

中学受験において、彼ののんびりとした性格に合っている
校風の学校を選び見事合格した。
しかし、入学した4月から校長が変わり、急に進学に力を
入れるようになった。

中学の3年間、成績が芳しくなかったため卒業する
タイミングで高校受験をするかもしれない、という話も出ていた。
そのまま高校に進学したのだが、やはり、ということで
高2になるタイミングで受験し直すことになった。
何となく大学受験をさせるより、手に職をつけさせた方がいい、
ということで、お母様が本人と話し合った上で工業高校を選ばれた。
編入ではないので、高1を2回やることを覚悟の上での決断であった。

当時弟は通い続けてくれていたものの、彼自身は中学に
入ってから別の塾に行っていた。高校受験の前にその対策を
するために戻ってきて、その後、約3年間入社試験の
前日まで来てくれていた。

戻ってくるときに、そのお母様が嬉しいことを言ってくださった。
「近所に先生のところと同じようなことを言っているような
塾があり、そちらに通わせたものの口だけで内容は
伴っていませんでした。それを中々見抜けませんでした」

少なくとも3年前までは、我々は言っていることとやっていることが
それほど大きくずれていなかったということである。
今がどうかはまた別の話である。

自画自賛はこれぐらいにして彼の話に戻る。
前日に来た際に、
「先生、今日企業から学校に問い合わせの電話があったらしいです」
と伝えてきた。高3の年齢ではなかったから、
その内容の確認のためであったらしい。

高校受験をし直したこと自体はプラスに働くから
包み隠さずに素直に話さなアカンで、と話した。
そして、それに対していくつかのアドバイスをした。

まず、中学入学とともに校長が変わり、校風が変わって
しまったこと。それでも、ちゃんと勉強してついて
行かないとダメだったのだけど、自分はそれがうまく
できなかったこと。
何となく大学に行くのではなく、職人であった母と
話し合った上で、自分もそちらの方が向いていると考え、
高校受験をし直したこと。

珍しくそのときは私の話したことをメモに取っていた。
実際、その点について聞かれ、私が話したことを
アレンジして面接官に伝えたとのこと。

彼は高卒と大卒で給与体系が違うことは理解している。
先輩からそのことも含めて、入社後味わうであろう
苦労についても聞いている。
聞くのと体験するのとはまったく異なるはずである。

元々自信満々というタイプではなかったが、
再会した時の彼はあまり元気がなかった。
今の高校に通い始め、周りに勉強ができる生徒が
少ないとは言え、そこでトップクラスを維持し続けたことで
「自分はダメじゃない」ということを感じられた。
もちろん、これは良い位置でいられる学校を選んだほうがいい、
ということを言いたいのではない。

 今後さまざまな苦しいことに直面するだろうが、
人のせいにせず自分の選択に責任を持って、
彼らには一定以上の充実感を得られる日々を送って欲しい。

2016年09月20日 14:44:49

Vol.269 単なる旅行記

 昨日、一昨日と我が家にしては
珍しく一泊二日の旅行をした。

今回の主な目的は直島を訪れることであった。
今年のGWに、宿の予約もして二泊三日で
滞在するはずであったのだが「やっぱ城めぐり」
となって、北陸や信州に取って代わられていた。

今回そこを選んだ理由は、この夏に生徒2人から
「直島に行ってきた」、「豊島に行った」というのを
聞いたからである。豊島に行った生徒は、直島を
経験済みである。

直島や豊島は岡山と香川の中間に位置する
瀬戸内海に浮かぶ島々である。
ベネッセの福武總一郎(ふくたけそういちろう)が
個人資産も投じて、安藤忠雄に美術館の設計を
依頼するなどして、町おこしならぬ島おこしを
した結果、今では瀬戸内国際芸術祭が行われるまでに
なっている。

15年ぶりぐらいに訪れたのだが、「よくこんな辺鄙な
ところに人が来るな」と前回同様の感想を抱いた。
しかも、そこには外国人もそれなりに混じっている。

大学生の頃にスペインを旅行した際に、
マドリードからバスに揺られて片道5時間ほどをかけて、
グッゲンハイム美術館を見るためだけにビルバオを
訪れたことを思い出した。

鉄鋼で栄えたものの鉄山の閉山とともに衰退していたが、
フランク・O・ゲーリーという当時世界で最も注目されていた
建築家の斬新なデザインの建物1つで観光客を呼べる
街として復活したのだ。

 いつも貧乏性が発動してとにかくぐるぐると
回ろうとするのだが、逆に日数が短くなったことで
あきらめがついて、「のんびりとするか」となった。
1日目は岡山城と倉敷の美観地区散策をして倉敷泊、
2日目は一日直島を満喫、という旅程であった。

通常、本を2, 3冊携えて行くのだが、今回はすぐに
帰ってくるし、ということで用意も適当であったため、
本を忘れてしまった。

夜に読むものがないから何か買わなきゃ、
となっていたら美観地区で思いも寄らず
良い本に巡り会えた。
城山三郎の『わしの眼は十年先が見える〜
大原孫三郎の生涯』である。
大原美術館の設立者である。

100%間違いないといっても過言ではないぐらい
城山三郎は面白い人物について書く。

今、自宅の本棚に並んでいる彼の著作を
ザッと数えても15冊はあった。以前にも何度か
「他に良さそうなものはないか」と
検索していたが、この本は抜け落ちていた。

前回、「城に行けば、そこの城主の良い面が
語られている」と書いたが、倉敷に行かなければ
この本に巡り会えなかっただろう。
土産屋の一角にあった数冊のうちの1冊だったから
気づけたのであって、大きな書店でたくさん
並べられた中から見つけるのは容易ではないからだ。

まだ半分も読めていないが、大原美術館は
日本で初めて西洋美術を中心とした美術館とのこと。
なお、大原孫三郎は現在の株式会社クラレの創始者である。
クラレの前身は倉敷レイヨン、ついでに東レの
それは東洋レーヨンである。

ちなみに、我々が宿泊していたのは、以前はどこかの
企業の保養所として使われていたところであった。
子供たちの就寝後、部屋で明かりをつけて読むのは
難しそうだったためロビーに移動していた。
読み進めるうちに気分が高揚してきた。
施設としては古かったものの、清潔感もあり従業員の感じも
良かったので「もしやこれは」と一人盛り上がり、
フロントにおられたオーナーらしき男性に
「ここは、どこの会社のものだったのですか」と尋ねた。

すると、なななんと、燃費不正で改善を指摘されたものの、
新たに出したデータでも懲りずに不正を行っていた
某自動車会社のものであったとのこと。
膨らんだ風船に針を刺された瞬間であった。

この文章を書くにあたり調べていて分かったのだが、
福武總一郎の「總一郎」は、大原孫三郎の長男大原總一郎に
由来しているとのこと。こういうつながりはすごく面白い。

 話はがらっと変わり2日目はとにかく美術館でゆったりと
した時間を過ごした。いつもは城や動物園などで子供たちが
絵を描きたい、となっても、次を急ぐので「夜にホテルで描けば」と
返すのだが、今回はその場で時間を取ってあげられた。

しゃがみこんで熱心に描いている長男の頭上から
外国人が覗き込んでいた。そこに展示されていた
何だかよく分からないモダンアートを圧倒的に
凌駕してしまう意味不明の絵を見て、何を思ったのだろうか。

下手であることを気にもかけない日本人の心の強さを
見せつけた我が長男の勇姿を、親として微笑ましく
見守っていた。

今、私の周りでは長男と二男がそれぞれ買ったままに
なっていた葛飾北斎とトトロの300ピースのパズルに
取り組んでいる。

ゆったりじっくりと時間を使う習慣を子供たちに
身につけさせたい。そういう人間は強いから。
私は強くそう信じている。

2016年09月13日 16:12:55

Vol.268 城めぐり

 城めぐりのことをここでどれぐらい
書いてきたのか定かではない。
そのことに関してしょっちゅう考え、
ことあるごとに話題にしているからだ。

100名城のスタンプ帳(本)があることを
知らなければ、日本一周城めぐりの旅を
始めることはなかったであろう。
子供たちにも私にもすごく分かりやすい
達成感を与えてくれる。

ヨーロッパを中心に海外旅行をしていた
大学生の頃は、美術館に行くことと
建築物を見て回ることを毎日の予定の軸にし、
そこにサッカー観戦などを付け加えていた。

今は、美術館が城に、サッカー観戦は
動物園や水族館などに変わっている。
長男が4歳になるぐらいまではビーチで
のんびりという旅行をしていたが、
きっとそれは自分らしくなかったのだろう。
せかせかと動き回る方が性に合っている。

その100名城、約3年間で76回った。
近場はほぼ行き尽くしたので、ここからは
少しペースが落ちて2年以上はかかりそうだ。

子育てにとって城めぐりは本当にいい。
まず、その理由として挙げられるのは
幼稚園児でも理解できること。
「この石垣を登るのは大変そうだ」
「ここから石を落とされたら痛いだろう」
「この階段を登るのは辛い」など。

また、山城(やまじろ)と言って、山の中に
あるものも多いため、結構歩く必要がある。
それによって、基礎体力をつけることにも
つながる。そして、そこには自然があるので、
虫を追いかけたり、走り回ったりもできる。

 ここから述べることは、小学校の
高学年ぐらいにならないと分からないことである。

いろいろな角度から物事を見られるようになる。
城に行けば、そこの城主の良い面が
語られているからである。

たとえば、社会の教科書においては謀反人として
位置づけられる明智光秀も福知山城に行けば
そのようにはならない。

それに関することで言えば、明智憲三郎という
明智光秀の末裔が執筆した
『本能寺の変 431年目の真実』
というのを1年ほど前に読んだが、あれはひどかった。
光秀の立場から歴史の検証をしているのかと思いきや
織田信長と豊臣秀吉の悪口を書き連ね、
一方で徳川家康はできた人であった、ということが
述べられているだけであった。

今夏、会津若松城に行ったとき「おお」となった。
『真田丸』では、今ちょうど上杉景勝が城主となっている。
養父である上杉謙信の春日山城から移封されての
ことである。
松山城を築城した加藤嘉明は、徳川幕府から警戒され
(必要以上に大きい城を作っていたため)完成前に
移封された。その先も会津若松城だったのだ。
松山城には3度訪れ、説明なども読んでいたが、
その事実は記憶から抜けていた。
徳川家光の異母弟保科正之も城主になっている。

中村彰彦という作家に出会ったきっかけは保科正之であった。
5年ほど前に面白い歴史小説を探しているとき、
「保科正之」を題材にしている作家だと良いものを
書くに違いない、という推測のもと検索をして出てきたのが
中村彰彦であった。今では、10から20冊ぐらいは教室に
彼の本が置いてある。

なぜそのように推測したかといえば、保科正之に関する記事を
何かで読んだときにこの人は面白いと感じたからだ。

「おお」となったのは、そのような3人の人物と関係の
ある城だと知ったからである。なお、伊達政宗も一時期
会津に入っているが、「仙台と近いしな」ぐらいの
感想しか持たなかった。

 親御様に城めぐりの話を嬉しそうにすると、
「先生は詳しいから」と言われることがある。
率直に言って、知らないわけではないが、
さほど詳しかったわけではない。
今も、胸を張って「詳しい」と言えるレベルとは
ほど遠い。

城に訪れて、そこで説明を聞いたり読んだりしている中で、
多くの知識を得た。それ以前より、この3年で新たに
知ったことの方が断然多い。
歴史に特段の関心もなく、ほとんど何も知らなかった妻も
今ではそれなりに分かり始めている。

 今回は、城めぐりは楽しい、ということを書こうと
しただけなので、思うに任せていたらまとまりの
ないものになってしまった。

私のような暇人はなかなかおられないと思うので、
興味を持たれた方は何かしらのテーマを持って
回るのも面白いかも知れない。

徳川家康であれば岡崎城、浜松城、駿府城、江戸城、
織田信長であれば清洲城、岐阜城、安土城などとなる。

ちなみに、会津若松城にあった歴史年表である発見をした。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の寿命がそれぞれ
49, 62, 75と13違いだったのだ。13年長い分大きなことを
成し遂げている。
とりあえず88歳まで生きることを目標にしてみるか。