2016年08月30日 10:43:17

Vol.266  神は細部に宿る

 イチローの最多安打記録が議論の的になっていた。
記録保持者のピート・ローズはメジャーリーグにおける
安打数だけだが、イチローのそれは日米合算だからだ。

当のイチローはそんなことは他人が評価することで
あって、特別な関心がないといった感じである。
きっとそれは本心なのだろう。今なお、ただただ
うまくなることだけを考えている気がする。

芸能人などがスポーツについて語っているのを
見たりすると、なんでよく分かっていないのに
コメントしているんだ、と怒りを覚えることも
あるのだが、自分のことは棚に上げ、
自称スポーツ通の私が今年のイチローについて
語ると次のようになる。

ここ数年成績が下降してきたイチローは、
何となくバットに当てに行っていた。
しかし、今年のイチローは若い頃のように、
しっかりとバットを振り切っている。
その結果ライト方向への打球とライナー性の
当たりが断然増えている。

このことは野球好きの講師に2ヶ月ほど前に
話していたことであり、シーズンオフにでも
誰かがそのようなデータを出してくれることを
期待している。

話は逸れたが、イチローのものを世界記録と
認めるかどうかということ付随して、
なぜだが英語力に関することを問題視している人がいた。
これだけ長い間活躍しているにも関わらず、
未だに通訳をつけていることを揶揄してのものだった。

私はイチローが英語を話しているのを聞いたことが
ないのだが、かなり流暢らしい。
それが真実だとしたら、なぜ自分の言葉で
語らないのか。それは、ニュアンスまで適切に
伝えるためには通訳が必要とのことであった。

そう言えば、「細かいニュアンス」というフレーズが
使われるが、そもそもニュアンス自体が細かい部分に
関することなので、少し変な気もする。

さて「ニュアンス」という言葉。教室で使用している
問題集でも、それが出てくるのだが、子供たちが
すんなりと理解できるように説明するのは非常に難しい。

 親は子供にいい言葉かけをしてあげようと
思ってはいる。でも、つい考える前に発して
後悔するということは少なくない。
私は子供が何かを望んだとき、交換条件を突きつける
ということは基本的にしない。

一度も言ったことはないが、たとえば、学校から
帰ってすぐに遊びに行こうとするのを制止して、
宿題を先にやりなさい、というのがそれに当たる。
宿題は宿題であり、遊びは遊びだ。

何がきっかけでそのようなことを考え始めたのか
定かではないのだが、「したら」と「してから」には
自分の中で微妙な違い、つまりニュアンスが
異なるということに気づいた。

たとえば、上の例だとおそらく「宿題をしてから」と
なる。また、子供にゲームを買って欲しいとせがまれ
親が塾の成績と結びつけ「クラスが上がったら」と
返すことがある。

この2つの違いはどこにあるのか。
「したら」は、条件をクリアできなければ望みは
叶えてやらないぞ、という気持ちが込められている。
要は、お前次第だと。
一方で、「してから」は当然のごとく組み込まれていて、
ただ順番は守らないといけない、という話である。

2つを比べたとき、「してから」の方がポジティブだと
私は感じているのだが、全然賛同できないという人も
いるかもしれない。
でも、それは大した問題ではない。

「したら」を私は子供に対してほとんど使わないが、
そのときはその言葉を投げつけているのだろう。
一方で、「してから」のときは少なからず愛情を
込められている気がする。

昨晩、録りためていた『真田丸』を早く見たがる
長男と次男に「お風呂に入ってから」と話した。

タイトル。
かなり大げさなような気がしてきた。

2016年08月16日 11:52:18

Vol.265 得られるもの失うもの

 来週の火曜日は個人的に休暇をいただいて
いるため、ブログはお休みさせていただきます。

『ルドルフとイッパイアッテナ』を観てきた。
かなり良かった。DVDで観てもいいのだろうが、
映画館に足を運ぶ価値があると思う。
お時間のある方は是非子供と一緒に
楽しんでください。

 一体全体あの「自由研究」というのは
何なのだろうか?

子供だけではなく親の頭も悩ませる宿題で
あることは間違いない。
それは私の子供時代から変わらないのだが、
最近すごく違和感を覚えるのは、それがビジネスに
なってしまっているところ。
新聞の折込チラシなどでも、「自由研究手伝います」
というようなものをよく目にする。
そういうお金儲けの感覚は好きではない。

小学2年生の長男の自由研究であるが、
ラッキーなことに生花教室の先生に声を
掛けていただいてあっさりと仕上がった。

いつもは平日の夕方に教室に通っているのだが、
夏休みということで先生の自宅に招待していただき、
おにぎり持参で朝からおじゃまさせていただいた。
枝を組み合わせたなかなかおしゃれな工作を
作って帰ってきた。

焼き物で花器を作るという選択肢もあったのだが、
窯に持って行って焼いてもらう必要があり、
日数がかかるという理由で、
今回はそれを断念したとのこと。

学校で作品がどれぐらいの期間どのように
展示されるのかは定かではないが、
花を持って行って、そこで生けたものを
飾っても面白いと私は考えていた。
少し残念である。

「自由研究」のために1日どこかのスクールに
通うのと息子の場合とではどこが違うのか。

たとえ自由研究として使えなくても、我が子は
間違いなくそこに行って同じように楽しんで
帰ってきただろう、というのがその答えだ。
つまり、誰かの手を借りて宿題を終えること
自体が目的ではなかったということ。

中学受験を控える6年生で時間がない、というのは
理解はできるが、少なくとも5年生まではそれに
充てる時間は十分にあるはずである。ないとすれば、
それはどこかで何かがずれてしまっている。
特に、我が子のように低学年であれば、
こういうものにこそ時間を掛けるべきだ。

妻の発案か、本人が言い出したのかは定かでは
ないが、もう1つやる、ということで、学校で
配られたプリントにあった10個ぐらいの課題から
1つを選択することになった。

それを見て私が3つぐらいに絞ったのだが、
妻から「自分で考えさせれば」と指摘を受けた。

私がしたのは、正確には「絞る」のではなく
「削る」ことであった。リストアップされた中に
「環境美化ポスター」、「人権啓発作文」、
「『いつもありがとう』作文」などがあった。

日頃、環境のことなんて考えていないし、
「差別のない明るい社会。平和の尊さを訴える」と
言われても何じゃそらといった感じになるだろうし、
「いつもお世話になっている家族に対して、
ふだん言葉でなかなか言えない感謝の気持ちを
作文に書いて」って、オリンピックでメダルを
取った選手への「この気持ちを誰に伝えたいですか」
というインタビューじゃあるまいし。

もちろん、こういう機会に立ち止まって考える
ということもあるとは思うのだが、
それにしても、というのがたくさんあった。

結果的に息子は「未来の掃除道具」と
いうものを選び、「未来の掃除機」について
考えることになった。

妻が子供達を連れて実家に帰省している時に
やらせてみたのだが、お掃除ロボットの絵を
描いてみようとするものの、結局「わからない、
わからない」となっていたらしい。

電話でそれを伝え聞いて、
「家に帰ってきたら、俺が教えるから」
ということで、それ以上手を付けさせなかった。

まず私がさせたのは、長男に掃除機を
かけさせること。その際には、その中に溜まった
ゴミを捨てるというところまでさせた。
そこで感じた不便さを解消するようなものを
考えなさいと伝えた。「重たい」、
「コードが抜けやすい」などを挙げていた。

今の形にとらわれる必要がないとも話した。
その代表例として、ダイソンの扇風機の画像を
見せ、そのとき目の前で回っていた
従来のものとの比較をさせた。

それ以外に重要なこととして、1日で仕上げるの
ではなく、毎日30分ずつでもいいからアイデアを
出すというのを1週間ぐらい続けたらとアドバイスした。

後は本人任せである。

一昨日も昨日も少しだけ変化させていた。
詳しくは見ていないし、もしかすると完成品も
見ないかもしれない。それは私の関心事では
ないからだ。

 「生徒に考えさせる」というお題目を掲げ、
「解いて」と子供たちの前に難解な問題を
ただ投げつければ良いわけではない。
その子が乗り越えられるかどうかを見極めた上で、
まず問題の選択を行わなければいけない。

そして、取り組んでいる様子を見ながら、
「少し難しすぎた」となれば、決定的に
なりすぎないレベルのヒントを与える。
適切なレベルなものであるにも関わらず
「難しそう」と諦めていれば「考えろ」と
背中を押す。

その問題が解けたかどうかの結果はさして
重要ではない。そのような経験を積み重ねて、
「次は自分1人の力で解こう」、
「やる前からできないとなるのはよそう」
という気持ちを心に芽生えさせ、それが
勉強以外のところにも生きて初めて価値がある。

早く正確に、を強いるだけの勉強なんてつまらない。

2016年08月09日 08:11:33

Vol.264 未来への学び

 高校生の男の子が取り組んだ
読解問題に次のようなものがあった。

傍線部「ここで、学習とか知識とかいう
用語が、必ずしも日常的用語と意味において
一致していない」とあるが、それはどういうことか。
自分で考えた具体例を挙げてわかりやすく説明せよ」。

そして、傍線部の後は次のように続く。
「(〜意味において一致していない)ことを
注意しておこう。ここでの学習とは、さまざまな
経験に基づいて外界についての知識を獲得することと
ほぼ同義である。
 また知識というのも、個別的な事実についての知識、
いわゆる断片的な知識ばかりではなく、外界の事物、
自分自身およびその関係についてのある程度体系だった
情報、概念的知識を含んでいる。」

どのようなことを答えるべきかお分かりに
なったでしょうか?

大学入試では、このぐらいのことが英語の
長文になる。問題作成者の意図はこういう
ことだな、と意識しながら読むのと
そうでないのとでは理解度が全然違ってくる。

彼はもちろん、傍線部以外も読んでいるのだが、
それでも記述することができなった。
「かなり分かりやすいメッセージやぞ」と
伝えたが、それで先に進むわけではない。

彼とやり取りをしている最中に、
その部屋で自習していたうちの1人である
5年生の男の子が
「クーラーの風が直接当たるので、向きを
変えてください」とお願いしてきた。
絶妙のタイミングである。

その時点では、斜め下を向いていたので、
上と下のどちらに向けるべきかというのを
その5年生、そこで国語の授業を受けていた
中学2年の生徒、自習をしていた中学受験を控えた
6年生3人を含めた5人(高校生はさすがに
分かるだろうとそこには入れなかった)に尋ねた。

誰かが「知らない」と言い、周りの生徒も答えようと
しなかった。「君たちが知ってる知識、習ったことで
説明がつく」と話しても、すぐに「わからない」と
返ってきた。

これは、小学校の頃に理科で習う「熱の伝わり方」の
1つの「対流」の話である。
冷たい空気は重く下に行くので、上に向けることで
対流が起こりやすくなり、空気が循環するのだ。

学校で習うことというのは、元々生活に役立つことを
ダイジェスト版にしたものである。
なお、この「ダイジェスト版」のことを上の問題では
「断片的」と表現している。

映画のCMは、何となく全体のストーリーを
イメージさせる。当然のことながら、そこでは
エンディングがどのようになるかは明らかにされない。

一方で、ダイジェスト版の勉強というのは
反対にエンディングだけを集めたものである。
一番肝心なところが示されているので、
それだけでも何となく全体像を分かった気になる。
でも、そこまでのストーリーを知ることで、
エンディングのインパクトは格段に増す。

理科や社会は特に生活との結びつきが強い。
すべては無理だが、そのうちのいくつかは
最初から最後まで見逃さないで欲しい。
それにより、断片的だった知識が体系化されるのだ。

「点数を取るためだけに勉強するのは望ましくない」
ということも伝えた。

ここで、先ほどの問題におけるテキストの解答を記す。
「ここでの学習とか知識とかいうのは、受験のためにする
学習やそこから得られる知識というものではなく、
私達がこれから生きるためにどうすればよいかを
学ぶためのものであるということ。」

問題作成者が意図したことも、過去の否定ではない。
未来へのメッセージである。
「もし君がこれまで点数に結びつくことだけを
勉強してきたのであれば、これからは視野を
もっと広げなさい。その分だけ君の未来は
明るくなるのだから」

受験勉強だけをしてきた子供と生活の中で
多くのことを学んできた子供。後者の方が
間違いなく人間的に面白い。
社会に出てから活躍する可能性も高い。

でも、生活との結びつきを考えながら
勉強したとすれば。

知識と知恵を併せ持った人間になれる。

志高塾に通った生徒にはそうなってほしい。