2016年04月26日 09:39:42

Vol.249 あの顔にしてみるか

 先に連絡です。
教室が来週1週間お休みをいただくため、
ブログもお休みさせていただきます。

 先週、
「いい人を採用できた」と嬉しそうに話したら、
「いつも同じこと言ってますよ」ともうすぐ
志高塾で教え始めてから4年になる講師に
突っ込まれた。指摘されるまで
その事実にまったく気付いてなかった。

一昨日放映された『真田丸』のタイトルは
「表裏」だった。それは秀吉の二枚舌を
表現していた。そういうのを見ると、
何かしら大きなことをするには、
使い分けることが大事なのか、と
思ってみたりもするのだが、結局は、
自分には合わないな、というところに行き着く。
それは、単に嘘つき呼ばわりされるのを
恐れているだけなのかもしれないが。

日頃から、親御様に講師間の会話を聞かれても、
メールのやり取りを見られても、
まったく問題のないようにしている。

何でもかんでも伝えればいいと
いうわけではないので、心配性の親御様に
「うちの子大丈夫でしょうか?」
と聞かれれば、
「(半年ぐらいは時間はかかりそうですが)
大丈夫です」
と答える。その際、括弧の中の内容は
口にしない。

それが3ヶ月や1年になることもある。
「大丈夫です」という場合もあれば、
「大丈夫になるようにします」という場合もある。
そのいずれでもなければ、それは正直に話し、
親御様と我々との間にあるずれの部分に
明らかにして、共通認識を持てるようにする。

仮に、その半年が親御様の想定している
期間より長いと判断すれば、その場合も
すり合わせが必要になる。

 冒頭の話に戻す。私は心から
「いい人を採用できた」と思っている。
もし、そう感じられない人を採用したので
あれば、親御様に知られてはまずいことに
なってしまう。つまり、そこに表裏はないのだ。

出会って良かった、と子供たちが
思えるような講師になって欲しい、
という期待をいつも込めている。

当然のことながらうまく行かないこともある。
期待すればした分だけ、私の落ち込みの落差は
大きくなる。自分自身を守るために、
あまり期待しないようにしようかな、
と考えたりもする。

幻冬舎を立ち上げた見城徹の『たった一人の熱狂』を
読み、いかに自分が小さいことしか考えられて
いなかったか、ということに気づかされた。
砕けることを恐れずに当たりに行かなアカンな、と。
きっと、砕けたら砕けた分だけ強くなるんやな、と。

ここは思い切って、あの本の装丁で使われている
見城徹の表情を真似たものを私も撮ってもらって、
HPのプロフィール写真を差し替えてみようかな。
気になる方は、amazonか何かで検索してみて
ください。違和感なくイメージできて
結構笑えるはずです。

“give and take”という。そんな言葉に従って
まずは自分が“give”するところから、なんて
考えていても、いつの間にか“take”するために
“give”するようになってしまう。

そうではなくて“give with take”なのだろう。
採用の例で言えば、“give”というのは少々
偉そうな表現かもしれないが、「志高塾で
働きたい」という人に、その環境を用意する。
その時に「いい人を採用できた」と
同時発生的に私はもう“take”している。
その瞬間完結しているのだ。

結果的にうまく行かなかったとしても、そこから
私が何かを吸収できれば、さらに“take”できている
ことになり、“give with take, and take”
ということになる。
もちろん、うまく行かない、というのは生徒や
親御様に迷惑をかけない範囲に収まっていなければ
ならない、という条件付きではあるが。

 現在、自分をバージョンアップさせようと
意識的に負荷をかけている。それゆえ、文章もいつも
以上に訳のわからない精神論になっていたりする。
しばらくはご容赦願いたい。

2016年04月19日 09:50:39

Vol.248 「それは違うよ」

 この春から4ヶ月程短期留学に
行く大学生の講師が「留学後のことで
話がしたい」というので時間を取った。

その後も続けるということに
なっていたので、それは辞めたい、
ということに他ならない。

 中学受験が終わったなどではなく、
年度の半ばなどで生徒の親御様が
「やめます」と言ってこられても、
こちらからその理由を聞くことはない。

どのような事情があるにせよ我々が期待に
応えられなかったことに変わりはないからだ。
もう少し辛抱してもらえれば、ということも
あるが、いずれにせよ、その原因は何かしら
志高塾、私自身にあると思って、それを
受け止める以外にはない。

何が良くなかったのだろう?
とそのことを心と頭に置きながら
しばらくじめじめと考えた方がいい。

 だから、その学生があいさつに
来てくれた時も、立ち話程度で
「これまでありがとう、頑張ってね」
というような言葉を掛けて終わりに
しようとしたら、理由を聞いて欲しい、
ということだったので、それであれば、
ということで改めて向かい合って座った。

それは
「他の講師のように自分は子供達のことを
考えられないと感じたから」
ということであった。

遡ること一ヶ月、その学生が作成した
月間報告(月に一度、親御様に授業の様子と
今後の対策などについて報告するもの)を
チェックした際に、私は以下のような指摘をした。
メールからの抜粋である。

「結論から先に言うと、すべて書き直し
(情報を追加)してください。
その子供をどうにかして良くしてあげたい、
というのが何も伝わってきません。
(中略)
うまく書けないことに対してはしょうがない
部分があります。ただ、一生懸命書こうと
しないのは許しません。私が親なら、
高い月謝払ってこの程度しか
見てもらえないのであればやめさせます。」

(中略)としたが、似たようなことを延々と
書いているからそうしたのではなく、
その部分は、たかだか100字程度なのだが、
生徒の名前を入れて、具体的にどこを変えた方が
良いというようなことを指摘しているので、
省いただけのことである。

 私は、息子が所属しているサッカーチームで
「お父さんコーチ」をしている。
我が子のためでも、他の子供のためでもなく、
自分の体を動かしたい、というのが
それをしている一番の目的である。
だから、私の一番の楽しみは練習後に行われる
ミニゲームである。練習中であれば、子供達の
サポートしなければならないが、そこでは
誰にも気兼ねする必要もないからだ。

その中で、私は主に2つのことを子供達に
伝えてあげたいと思いながら教えている。

1つ目は頭を使うこと。たとえば、自分がボールを
持っているとき、相手と自分とボールをどのような
位置関係にすれば取られにくいのか、という
ことなどである。何も考えずに、必死にボールを
取られないようにしたところでいっこうにうまく
なることはない。

2つ目はハートに関すること。月に6, 7回しか
練習がないようなチームなので、全体的にゆるい。
低学年の子供であれば、ボールが当たったぐらいで
普通に泣いてへたりこんだりしているから、
「泣くなっ、立てっ」と叱咤する。
泣いていてもいいが立たなければいけない。

私の中では作文やサッカーを教える、というよりは、
それを通してもっと大事な何かを伝えてあげたい、
という気持ちの方が強い。

 相手が学生なので「高い月謝払って」
という表現を用いた。これまではお金を払って
サービスを受ける側だったのが、その立場が
逆転していることをちゃんと理解しなければ
いけないからだ。

しかし、実際はお金なんて関係ない。
サッカーチームの月謝はたったの1,000円で、
私は当然ながらボランティアである。

 他の講師と子供への愛情が違う、と言った
学生に対して
「それは違うよ。そこのところが分からないと
また同じことをしてしまうよ」
と伝えた。そのような考えだと、
また同じような状況になった時に
「実は、自分が好きなことではなかったから」が
言い訳になってしまうから。

そもそも、私が講師を雇う時、子供好きかどうか、
はまったく考慮しない。

話はもっとシンプルだ。
相手が子供であれ、同級生であれ、年上の人であれ、
仕事、プライベート関係なく、
この人と会って良かった、この人と話せて良かった、
そう思ってもらえるように、
自分に何ができるかを考え、行動することである。
最後に私はそのようなことを伝えた。

2016年04月12日 11:24:32

Vol.247 ね、いいでしょ?作文と読書って

 掃除をしていて、ふと
「見えない部分までちゃんとやる」
ではなく、
「見えない部分をちゃんとやる」
ことが大事なのでは、という気がした。

そして、スティーブ=ジョブズが
技術者から開発中のパソコンの基盤を
見せられて、美しくないという理由で
作り直しを命じたということを思い出した。
その基盤は、もちろん見えない部分である。

「見えない部分まで」は、見える部分が先に
あってそれに準じる程度を目指すのに対して、
「見えない部分を」は、そちらが先行し、
「見えない部分をあれだけ頑張ったのだから、
見える部分はさらに」となるのではないか、
というのが、そのように考える根拠である。

見えると見えない、を、
見られている時と見られていない時、に
置き換えてもいいかもしれない。

見てないとちゃんと勉強しないから
という理由で子供を管理しようとすれば、
見てない時に全力で手を抜くようになる。

もし、見てない時でもちゃんとやる子にしよう、
ということを目標に掲げれば、時間はかかるが、
自律できるようになっていくのではないだろうか。
「どうすればそうなりますか?」と
聞かれても、「今から一緒に考えましょう」と
いうことぐらいしか言えないが。
ただ、まずは見られている時に、
見られていると感じさせないようにして
あげることから始めないといけないのは
ほぼ間違いない。

 前回「今年はビジネス書を読む」と
いつものごとく勝手に宣言した。
村上春樹が翻訳をした『結婚式のメンバー』を
買ったところであったので、「この1冊を
読んでから」と思っていたが、
「いや、アカン」となって、小説とは
しばしおさらばすることにした。

そこで問題が。どの本から手を付けようか、
となってしまった。経営に詳しく、
以前に本を紹介してくださったお父様に
お薦めを尋ねようかとも考えた。
結局、家の本棚を探してみると、
『ZERO to ONE〜君はゼロから何を
生み出せるか』を見つけた。

なお、その「0 to1」の対義語は「1 to N」になる。
「1 to N」は、既にある「1」を増やすということを
意味している。チェーン展開などもそれに当たるし、
海外でうまく行ったものを日本に持ち込むことなども
その1つだ。

『クーリエ・ジャポン』で以前に紹介されて
いたので購入したのはおそらく1年以上前。
その間、1度も読みたいと思わなかったのに、
「これだ!」となるのだから不思議だ。

その序文を書いているのが
瀧本哲史(たきもとてつふみ)という
京都大学産官学連携本部で客員准教授を
されている方。

『Vol.244 誘導と自動』で登場した
この4月に大阪大学に進んだ彼と1年ぐらい前に
大学で何を学ぶかということで作文をさせていた時、
「もし、俺が今、京大に通っていたら彼(瀧本哲史)の
授業を受けたいな」と話していた。

ここで、その序文に書かれていたことをそのまま引用する。
「まず、一番読んで欲しいのは、起業家ないし
起業志望者の人達だ。スモールビジネスで
起業するのも良いが、全く新しい、
世界を変えるような巨大な企業を創り出そうとする
本書のアプローチは一度目にしておいた方が
良いだろう。必ず、目線をあげるキッカケになるだろう。」

分かりますか?私のこの喜びが。
前回私は、次のように文章を締めた。

「ただ、何かしら物事がうまく行っていなかったり、
今以上のものを得ようとすれば視点を高くする
必要がある。
そのために、今一度経営の本を読み始めようと
考えている。
昔とは随分と眺めが変わっていることを期待して。」

分かりましたか?喜びの理由が。
これだけきちっと符合したら、
「あなたはすごく正しい一歩を
踏み出しました」というお墨付きを
もらった気がする。

 半年ぐらい前に、18歳で選挙権が
与えられることについて作文をしてもらった時、
投票率を上げるために通っている学校で
投票できるようにしたらいい、
というのをある生徒が提案した。

それに対して、「アイデアはすごくいいけど、
自宅の近所でしか投票できへんから
現実的とは言えんかもなぁ」と話した。

数日前、「駅で投票できるようになる」
というようなことがニュースになっていた。
それを目にした時「あのアイデア行けるやん」
となった。

 話題はいつにも増してコロコロと変わる。
次に何を読もうかと本屋に行ったら、
大前研一著『0から1の発想術』と
いうのが目に付いた。
このタイトルは、おそらく編集者の
アイデアだと思うのだが、乗っかろうと
しているのが見え見えで、逆に
まったく買う気が起こらなかった。

ついでに、その横には、ホリエモンの
『ゼロ〜なにもない自分に小さなイチを
足していく〜』
が並べられていた。これは何年か前に
読んだのだが、収監されて「ゼロ」に
なったけど、という内容のものである。

タイトルが似通っているというだけで、
その2つを隣同士にするには、
あまりにも安直な気がする。
『0から1の発想術』が発売間もないことも
あるが、半年経っても、アマゾンでいずれかを
購入した場合、もう一方が
「この商品を買った人はこんな商品も買っています」
のリストに挙がってくることはないだろう。

 今回のタイトルの意味はもう分かって
いただけましたでしょうか。
要はそういうことなのです。