2016年03月22日 14:39:01

Vol.245 最近お気に入りのあの娘

 今週1週間、塾としてお休みを
いただいております。私のブログは1週間
ずらして来週をお休みとさせていただきます。

 私と6年生の女の子とのやり取りを聞いて、
5年生の生徒がやや不満げに「先生、女の子には
甘いよなぁ」ともらした。

以前、2年生の女の子が作文をうまく書けず
泣いていたのを見た時、
「泣くのはいいけど、俺、泣いている生徒には
もっと厳しくなるで。それでもいいなら
泣いときや」というようなことを伝えた。

泣いている生徒すべてにそのように言うわけではないが、
その子を見た時、
「泣いたら許されると思っているな」と感じて
そのように対応した。
つまり、女の子に甘いわけではないのだ。

ちなみに、前述の5年生の生徒も女の子なので、
話としてはおかしい。自分にはあまり優しくないと
感じての発言だからだ。

そう言えば、数ヶ月前に3年生の女の子を
玄関で見送る際、普段通り
「気をつけてね。さようなら」と声を掛けたら、
それをソファで聞いていた中学1年生の女の子に
「なんか、私の時と声(の高さ)が違う!」と
指摘された。一瞬「そうか?」と考えてみたが、
特段否定する要因が見つからなかったので
「確かにそうやな」と素直に認めた。

その中1の生徒は4月からしばらく休塾することになり、
「先生、寂しい?」と聞かれた。
「寂しいなぁ」と適当に返したら、
「でも、あの子(3年生の女の子)が
いるからいいか」と突っ込まれた。
心が休みモードなので、本題とまったく
関係のないことを書いてしまった。

 話を戻そう。その6年生の女の子のことは
これまでの生徒の中で一番ではないかな、
というぐらい怒りまくっていた。
3本の指には入ることは間違いない。

そりゃそうだ。
授業中にぼーっとしている時間が長く、
あげくの果てには机を削ったり、
壁紙に落書きしたりしていたのだから。
それを見て切れない方がおかしい。

中学受験も直前に迫った冬休み、
2日連続で5分ぐらい遅刻してきた。
こりゃアカンとなり、本人にも親御様にも
「明日以降1分でも遅れたらその日は授業をしません」
と伝えた。

その翌日からどうなったか。朝は苦手と言っていたのに、
30分前に教室に来るようになったのだ。
その気になれば多くのことはできてしまう。

私は基本生徒が来る30分ぐらい前には
いるようにしているのだが、彼女が
それだけ早く来るようになったことにより、
私の出勤時間も早まった。
受験直前の生徒を教室の前で待たせて
風邪を引かせるわけにもいかないので。

朝の30分は大きい。でも、きっと
こういう時に「嬉しい悲鳴」という言葉を
使うのだろう。

無事に合格し、そのタイミングでやめるのかな、
と思っていたから、そのことを伝えたら
至極当然のように「やめへんで」と
返ってきた。そして、今では6年生の中で
1番頑張ってる、と感じさせるぐらいに
勉強に対して前向きになっている。
別に2番でも3番でもいいのだが、
少なくとも以前の彼女とは別人なのだ。

なぜ彼女が受験後も勢いを失わないどころか、
加速しているのか。それは、自分は勉強が
できないわけではない、というのを実感し始めたから。

彼女が志高塾に通い始めたのは、大手塾でうまく
行かなかったから。そのような生徒は決して少なくない。
ただ、我々のところに来たことがきっかけで、
ゆっくりとではあるが、大抵は少しずつ高度を
上げていく。しかし、その子は、雨が降る前の
つばめのように、地面すれすれを水平飛行し続けていた。

中学受験までは、それまでに空けてしまった
大きな穴を埋めるということにエネルギーを
費やさざるを得なかった。
しかし、算数から数学に変わるタイミングで
一度リセットされる。彼女は、それを絶好の機会と捉え、
積み上げていくことに喜びを感じているのだ。

そして、私は「中1のうちは突っ走れ。1年間頑張れば、
そのポジションが自分のものになるから」
と繰り返し伝えている。

 私が優しく接するかどうかに性別も、学年も関係ない。
力を出し切っていると判断すればそうなるし、
そうでなければそれなりに厳しくもなる。

講師たちに、意味もなく子供を褒めないようにと
伝えている。我々の役割は褒められる部分を作って
あげることだ。
我々自身の手で、子供たちを成長に導いてあげ、
成長が見られた部分を褒めてあげることこそが重要なのだ。

先の件も同様である。力を出し切れるように促してあげ、
その結果、優しく接するのだ。

2016年03月15日 11:27:03

Vol.244 誘導と自動

「先生、どこやと思います?」
「そうやって聞くということは
一橋ではないよな。う〜ん、じゃあ神大?」
「違います。阪大です」

電話がかかってきたタイミングからして
国公立の前期試験で合格していたことは
分かっていたので、気楽な気持ちで
やり取りしていた。残り約半年で
よく頑張ったな、というのが率直な感想。

彼は、中学1年生の4月に入塾し、
高校3年生の7月末まで通い続けてくれた。
その期間は彼が中学、高校のクラブで
野球をしていた時期とそのまま重なる。

その7月の時点では、一浪してそれなりの
ところに行くのだろう、というのが
私の見立てだった。

 「生徒とともに成長したい」という言葉が
好きではない。それは、ボランティアでは
ないから。仮に無償で教えていたとしても、
子供の時間を使っていることを考えると、
やはり適切ではない。面接に来た人が
そのようなことを口にしたとき、
私は決まってこのことを話す。

でも、彼に意見作文を教える上での
私はそれに近かったような気がする。
それでは失礼なので「私自身が成長して、
生徒の少し先を行きたい」と考えていた。

志高塾としても私個人としても、
それまでに意見作文を教えたことはなかった。
だから、すべてが手探りであった。
何をどう教えるかはもちろん重要なのだが、
そのような具体的な方法論よりも、
優秀な人間とはどのようなものであるか、
というものをイメージした上で、
何をするべきか、ということを逆算して考えた。

優秀な人間というのは、分かりやすく言えば、
世の中のことに広く興味を持ち、それぞれの
事柄にそれなりに柔軟なその時点での自分なりの
意見を持っている人間、ということになる。

ここでひとつ断っておくと、私の考える
意見作文と入試などで出題される小論文とは違う。
小論文というのは、ある程度型が決まっていて
その枠からはみ出ないようにして少しでも多く
得点することを目的にしている。

一方で、意見作文は自分の頭で考え、
自分なりのアイデアを引き出すことに
重きを置いている。

彼を教えていく中で、というよりかは彼のお母様に
私は随分と育てられた気がする。
授業のすべての時間を意見作文に充てていたのだが、
たまには読解問題もいいか、と中学3年生ぐらいのときに
一度それに取り組ませたことがあった。
そのことを月間報告で伝えると、
「そのために通わせているのではない」
というコメントをいただいた。
よって、5年半で問題を解いたのは2, 3問である。

そのお母様から
「(作文ももちろん大事だが)それを通して先生と彼が
いろいろなことについて話すことに意味がある」
という言葉をいただき、私は嬉しくもあり、
気が引き締まった。

私の学生時代の友人であれば、「お金をもらえるとしても、
自分の子供をお前に近づかせたくない」と言う気がする。

お母様は、昔英語の先生をされていたのだが、
定期テストの前に彼が分からない部分に関して
質問をすると、それだけではなく、その周辺にあることも
含めて説明をされるので、3分ぐらいで済むはずが
30分以上もそれに費やされて困る、ということを
漏らしていた。
これは私がよく言うところの、効率的ではなく
効果的な勉強の一例である。

「vol.241 すごいなぁ」で紹介したのも
意見作文の1つであり、その中3の彼が
入塾する際に、いくつかの候補の中から、
今回取り上げている高3の彼と同じコマに
通ってもらうことにした。
時には作文から離れて、私とその2人の3人で
何かしらの話題について話していたこともあった。

その中3の彼のお母様も
「息子が授業の中で先生と話すことが」
と奇しくも同じようなことをおっしゃってくださる。

このような受験に直結しないことに
時間を割くことに接すると「その子は余裕があるから」
で終わらせる親は少なくない。
「当たらずとも遠からず」という表現があるが、
この場合「当たっているけどはるか彼方」となる。

2人とも成績表を見せてもらったわけではないが、
親御様や本人の話を聞いている限り、点数的に
余裕があるわけではない。

それでも親御様には余裕がある。なぜか。
目先のことだけではなく、もっと先を見据えて
いるからだ。だから、必要以上に点数のことが
気にならない。点数に余裕があるのではなく、
心に余裕があるのだ。

韻を踏みたかったので、「誘導と自動」としたが、
「誘導と自発」の方が妥当かもしれない。
せっかくなので、誘導と自動で行こう。
その対象を逆転させている親が多いように感じる。
親が導いてあげないといけないこと、
そこを間違えなければ後は勝手に動き出す。

たとえば、意見作文のようなものを大事だと
考える親の子供は、それなりに将来の展望を
持っている。それゆえ、今何をするべきか、
ということを自ら考え、行動することができる。

ちなみに、その彼は電話をくれた数日後、
教室を訪ねてくれた。30分ほど立ち話を
していたのだが、その中で彼は
「結局、一橋ではなく、阪大に落として
楽をしたから、その分大学では勉強を頑張ろうと
思っている。まず、1回生の夏休みに
短期留学をして、3回生の1年間を
大学のプログラムで留学したい(単位も
認められるので休学扱いにならないとのこと)。
そのために良い成績を取っておかないといけない」
と話していた。

TOEFLのスコアを上げないといけないということで、
スピーキングとリスニングの力を鍛えるために、
私との話を終えた後、その足で英会話スクールの
体験授業に向かった。

誘導と自動の話に戻す。上記の例とは反対に、
今は中学受験が控えているから読書する時間は
取らさないけど、それが終われば読むようになる、
と考える親の子供は大抵そうはならない。
そうなる子供は少なからずその時点で片鱗がある。
忙しいけど、隙間の時間を見つけて少しでも
本を読もうとするなど。

そういう親は、中学受験が終われば、その瞬間から
今度は大学受験に向かわせるのだ。
誘導する部分が間違えていれば、その他の部分では
何の変化も生まれない。それは不動であり、
成長しないことを意味している。

 私は子供を持つ一人の親として、彼のお母様から
子育てについて大変多くのことを学ばせていただいた。
この1つの文章だけでそれをお伝えすることは
できないが、少しでもそのエッセンスのようなものを
伝達できていれば幸いである。

親が目先のことに囚われ過ぎず心に余裕が持てれば、
それは子供の成長を促す
とても大きくて良質なエネルギーとなる。

2016年03月08日 14:24:09

Vol.243 何かを身につけるための「何か」

 我々は、目先の何かに因われてしまいがちである。
子供のことになると、より一層その傾向は強くなる。
その何かは計測可能なものであり、それゆえに
比較が付きまとう。すると、さらに「何か」は
置き去りにされてしまう。

何かを身につけるための「何か」。
何かではなく「何か」を大事にすべきである。
それがこの文章のテーマである。

これに関することは以前内部の親御様向けの
文章で書いた。「何か」というのは、
体力、集中力、興味力だ。もしかすると、
その時はこの3つでなかったかもしれないが
大きく違うことはないだろう。

「何か」のためには守ることが大事なのに、
何かのために壊すことに一生懸命になる。

歩き始めて、外で遊ぶようになった子供は、
目につくものすべてが新鮮で、親にとっては
何が楽しいのか分からないもの、ことに熱中する。
集中力、興味力の芽生えである。

自然に芽吹いたものは、自然に任せるのが
一番である。だから、人工の手が加わらないように
積極的にそこを守り抜く。
それゆえ、我が子の幼稚園選びでは、
その点をとても重要視し、何かを教えようと
するところは除外した。

集中力や興味力を下支えするのが体力である。
チェスの世界チャンピオンのインタビュー記事では、
大きな大会の前には、精力的にトレーニングをする、
ということが書かれていた。

そう言えば、私と長男の地下鉄御堂筋線マラソンの旅は
この前の日曜日で予定より少し早くゴールを迎えた。
1日目;千里中央〜東三国(10km)
2日目;東三国〜大国町(10km)
3日目;大国町〜なかもず(13km)

子供は小さいし私は長距離が苦手なので、
とにかく楽しむことを大事にした。
同じ10kmでも、400mトラックを25周するのと、
景色が変わり続けるのとでは気分がまったく違う。
それがたとえ国道沿いの道であったとしても。

今度は、大阪城の周りや京都、奈良などを走って
みようかと考えている。

算数や国語ではなく、理科や社会ができる子供が
優秀なのではないだろうか。一生懸命暗記して
100点に近い点数を取れるということではなく、
勉強していないのにそれなりにできてしまう
子供こそがそうだと思う。

「何か」の基礎がある程度できあがれば、
放っておいても何かは身についてくる。
そのような状態になれば、今度は何かを
追い求める状況で「何か」はより磨かれていく。

実証されているわけではないので、
信憑性は定かではない。
ただ、こういうことを特に低学年以下の、
いやそれより小さい就学前のお子様を持つ
親に伝えたい。