2016年01月26日 17:52:14

Vol.237 ゲームとゲーム感覚

 中学受験を1週間後に控えた生徒が、
過去問を解いた時、漢字のできがあまりにも
良くなかったので「ちゃんと勉強してんのか?」
と問うた。もちろん怒りながらである。
すると、「毎日してる。ゲームで」と返ってきた。

例年、1人か2人ぐらいは志高塾以外の
受験専門塾に通わずに受験に臨む生徒がいる。
上の生徒もそのうちの1人であった。
ちなみに、それには大まかに2つのパターンがある。
1つは、元々受験をする予定がなく、残り1年を
切ったぐらいで急に本人の気持ちが変わって、
「今から、他のところに行くのもなんなんで」という場合。
もう1つは、大手塾に早い段階から通っていたものの
成績が下がる一方で、そちらをきっぱりやめる場合。

その生徒には、漢字のテキストも渡し、教室でテストも
していた。ある一定以上のところまで終えたので、
後は復習を繰り返すだけ、ということになっていた。
要は、それをさぼっていたのだ。

もう1つ注意したことがある。
直前になって親御様が別の漢字テキストを
買い与えて、それに手を付けていたからだ。
「短期間で完成」という類のものであった。
要は、「これはやれば要領よく点が取れますよ」
というものだ。

「渡しているものの方が分量も多いからそっちを
しっかりとやりなさい。複数のものを使うと
重なりがあり無駄が出る。」ということを伝えた。

 以前にも一度書いた記憶があるのだが、
私はゲームで漢字や英単語を覚えることに反対だ。
英単語に関しては、正確な発音が分かる、という
メリットがあるが、ここではそれを考慮しない。

ゲームでやれば、自分で本を開けて、
紙に書くことに比べれば、数段楽しく
勉強ができる。それの何がいけないのか?
子供たちがその後暗記しないといけないもの
すべてがゲームになっているのではない、
というのが唯一にして絶対的な理由である。
ゲームに慣れると、地道な勉強との落差が
より大きくなってしまう。

 ここで「ゲーム感覚」の出番だ。

今年になってマラソンを始めた私は、そのことを
あちらこちらで嬉しそうに話している。
長距離が苦手であった私は、それを始めた自分に
驚いている。

ひとりでは、途中で止めたくなりそうだったので、
1年生の長男を巻き込んだ。そして、私も子供も
できるだけたくさん走って、かつ楽しめるように
するにはどうすればいいのかを考えた。

私は、千里中央の近くに住んでいる。そこで、
地下鉄御堂筋線に沿って走ることにした。
子供にそのことを伝え、
「今日は、江坂(3つ目の駅)ぐらいまでかな」
と走る前に話していた。

ルールは単純。子供が疲れたところで終わりにする。
ただし、それは駅と駅の途中ではなく、必ず駅を
ゴールにする。

実際、1つの目標としていた江坂が見えたとき、
子供はどうしようかと逡巡していた。
「どうする?ここで止める?」と聞くと、
少し経ってから、「いや、まだやる!」
と返ってきた。結局、次の東三国駅まで、
約10kmの道を一度も止まらずに走破した。

これにはまだ続きがある。次に走るときは、
電車で東三国まで行き、今度はそこから
続きをするのだ。終点のなかもずまでは、
千里中央から40km超ある。ひと月に1度程度
それをするので、春ぐらいにはゴールできそうである。

まだ1回しか走ってないにも関わらず、
子供は「これが終わったら(なかもずまで行ったら)
今度はどこを走るの?」と聞いてきた。

私は、子供とのマラソンにゲーム感覚を持ち込んだ。
別にそのことを細かく話したわけではないので、
息子がそれを理解しているわけではない。
でも、こういうことを繰り返しているうちに、
同じことをするにしても少し工夫するだけで
楽しくなる、というのを何となく感じてくれることを
期待している。

実は、私も子供同様「次はどこにしようか」と
考えていた。でも、まずはなかもずまでの
道中を2人で存分に楽しもうと思っている。

2016年01月19日 16:42:10

Vol.236 1+1→1

権力は、個人ではなく組織に属する。

韓国の元大統領が逮捕されるたびに、
いつか聞いたその言葉を思い出す。
韓国では、(現職の大統領は)刑事訴追を
免れる。あくまでも()付きなのだが、
未来永劫それが続くと錯覚し、汚れたお金を
せっせと懐に入れる。
歴代大統領本人、もしくはその家族が
逮捕される確率がかなり高い。

あのスティーブ・ジョブズも一度は自分が
作った会社を追われている。
そして、愛着のあるアップルを立て直すために、
請われてトップに返り咲いた。

少なくとも実力=権力であるべきで、
実力>権力というのが理想の姿なのだろう。
権力を振りかざすのは、実力<権力、
いや、実力<<権力のタイプである。

今回、SMAPの一連の騒動に触れ、
また、冒頭の言葉を思い出した。
裏事情はまったく分からないが、
あれほど実績を積んできても、
自分達の思い通りにはならないのだ。

技あり!

 クマムシ。
こんな寒い日は、あったかいスープでも。
ってな話ではない。

今朝の『天声人語』に、クマムシのことが
書かれていた。それについて簡単に説明する。
体長0.1ミリから1ミリ程度で、4対の足で歩き、
昆虫ではなく緩歩動物門に分類され、
歩いている姿がクマに似ているとのこと。

なぜ取り上げられていたかと言うと、
通常の寿命は数十日程度であるにも関わらず、
30年以上冷凍保存されていたクマムシが
解凍されて復活し、繁殖にも成功したことが、
国立極地研究所から発表されたから。

あのクマムシは、このクマムシのことを
知っていて、コンビ名を付けたのだろうか、
と気になり、ウィキペディアで調べてみた。
「すると、クマムシのように生き永らえることが
できるように」というような意味を込めて、とあった。

でも、すごく大事なことが見落とされている。
その間は、あくまでも「仮死状態」なのだ。
世間からまったく注目されなくても、
コンビはとりあえず存続している、
といったことにならないのだろうか。

仮死状態に関する部分を引用すると、
「100度の高温でもマイナス273度でも大丈夫だという。
真空、高圧、放射線にも強い。厳しい条件の下でも
『乾眠(かんみん)』、『凍眠』などと呼ばれる仮死状態と
なり、体が縮んで『樽』のような形になる」

現在、その仕組みは解明されておらず、
将来的には臓器の乾燥保存や、老化防止と
いった医療技術に貢献する日が来るかもしれない、
とくくられていた。

それと似たようなことが六甲の過去問の中で
出題されていた。それはミジンコの卵についての
文章であった。乾燥に強く、「休眠卵」、「耐久卵」
などと呼ばれ、こちらの方は積もった土砂の中で
35年間は生き続けられることが実証されているとのこと。

クマムシの記事がミジンコに繋がり、
そして、あるハウスメーカーが、外壁が
より水をはじくようにカタツムリの殻の
研究をした、ということを思い出した。

科学の力を過信せずに、自然に敬意を払う、
というようなことが言われる。この場合の自然は、
「自然災害」などを指す場合が多く、今回のように
必ずしも生き物と関連付けられるわけではない。

電気製品など新しい商品が開発されたときは、
耐久試験が行われる。
掃除機であれば、上から落としたり、ホースをいろいろな
方向に何千回、何万回曲げたりしても壊れないか、と
いうことがテストされる。

生物に詳しいわけではないが、クマムシもミジンコも
カタツムリもそんなテストより格段に厳しい
自然環境に耐えながら、何千、何万という年月を経て
今に至っているのだから、人類の生活にとっての知恵が
詰まっていても何ら不思議ではない。

技あり!

合わせ技一本っ!

2016年01月12日 14:06:02

Vol.235 気付こうが気付かまいが

 年初めは新年らしく、
そして、今回は中学受験を週末に
控えているので、中学受験直前らしく、
ということを少なからず意識させられる。
そういう時は、それに従うか抗うか、
というところからテーマ選びが始まる。

数年前に母から「仕事をする上で、父から
学んだことが多いのではないか」と尋ねられ、
「お母さんからの方が多い」というような
返答をした。それは偽らざる本心であった。

父は厳しく、母は優しかった。
「厳しい」よりも「煙たい」の方が
的を射ているだろう。

3人の息子を持った今、私もそのうちに
そういう風になるのだろうと心のどこかで
思っている。覚悟している。
そういう風な「存在」ではなく「役目」
と言った方が適切かもしれない。

時代の変化と私の職業的な要因により、
父と私の頃に比して、私と息子たちの接する
時間は断然長い。それが少なからず影響を
与えるかもしれないが、私がそのような
役目を果たすことに変わりはない。

 私が25歳か26歳の時に、その父を病気で
亡くした。余談になるが、父の命日も
自分の結婚記念日も覚えているのだが、
命年、結婚記念年、そんな言葉はないのだが、
つまり、それが何年の出来事であったのか、
ということを思い出すには少々時間を要する。
しかも、そこで出た答えが合っているか
どうかも定かではない。

地域の子供会のソフトボールチームの監督を
していた父が、ある選手が三振した時によく
怒っていた、ということをふと思い出した。
私も、現在中学受験を目前に控えた男の子が
問題を解けない時によく怒っている。

「時」であって「こと」ではない。
父は三振したという結果に対してではなく、
彼が、バッターボックスからベンチに
帰ってくる時に、下を向きながら首をひねって
ぶつぶつ言い訳していることを叱責していたのだ。
「下を向くなっ!」とよく叫んでいた。

私も、その生徒が解けないことに声を
荒げることはない。具体例を挙げる。
算数のある問題について解説し、その類題、
いや数字が違ったぐらいなので同題、と表現しても
いいかもしれないようなものを前にした時に
10分以上まったく動かなかったのだ。

自分から何も言わないのでいろいろ聞いた結果、
実は私が解説したものが理解できていなかったのだ。
それであればそのことを私に伝えなければいけない。

私が怒るのも父が怒っていたのも、
そのような姿勢が将来その子供にとって
マイナスに働くと考えられるからだ。

入試に合格することや試合に勝つことは
その次のことなのだ。もちろん、不合格でいい、
負けていい、ということではない。

私は、子供の頃から母が自宅で行っていた
ケーキ教室の様子をつぶさに見ていた。
一方で、サラリーマンであった父がどのように
仕事をしていたかはほとんど知る由もなかった。
それが「お母さんから学んだことの方が多い」と
思った理由なのだろう。しかし、知らず知らずのうちに
大きな影響を受けていたのだ。

この一事を持ってして、仕事をしている姿を
できる限り子供に見せた方がいい、と訴えたいのではない。
直接、間接を問わず、自分の知らないところで
親の影響はたくさん受けているのだろう。

「そんなの当たり前でしょ」とは思われるかもしれない。
でも、その当たり前のことを「なるほど」と実感するか、
それなしに「当たり前」で済ませるかの間には
大きな隔たりがある。

 子供には見せていないが、生徒達は私が働く姿を見ている。
「好きの反対は嫌いではなく無関心である」
というマザーテレサの有名な言葉がある。
良いお手本になれるに越したことはないが、
それが叶わぬ夢であるのならば、
せめて立派な悪いお手本でありたい。
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