2015年12月22日 09:40:41

Vol.233 それはそういう顔して

 Vol.231で、「大きくなりすぎた胃袋の
責任はいったい誰が取ってくれると
いうのだろうか」と書いた。
ある種当然の帰結かもしれないが、
当人に責任を取ってもらおうじゃないか、
ということで、村上春樹の『雑文集』なる
ものを書店で購入した。

それまでにも読んだことがあったのに
注目していなかっただけなのか、
それとも本当に初めてなのか定かではないが、
村上春樹は大学に7年通ったということを知った。
細かい事情は説明されていなかったが、
単純に3年留年したことになる。
その後、ジャズ喫茶を経営し30歳ぐらいで
作家になることを決意する。

「作家になろう」と思ったのは、確か、神宮球場の
外野席で、ビール片手にヤクルトの応援をしていて、
外国人がツーベースを打ったときだったはずだ。
そちらはある程度鮮明に覚えている。

 もし、村上春樹が4年で大学を卒業して、
いわゆる一般的な就職をしていたら今の彼は
なかったであろう。ジャズ喫茶を経営することに
親は反対したらしい。それはそうだろう。

親はかわいい子供の成功を願い、いろいろと
計算を働かせる。誰も村上春樹と似たような
人生を歩むためにはどうすればいいか、とは
考えない。それはあまりにも極端な例だとしても、
親がはじき出した答えというのは、
大抵の場合、他の多くの親と似たようなもので
大して面白いものではないはずだ。

「面白さなんていらない」との謗りを受ける
かもしれないが、
私はそれをとても重要なことだと考えている。

私も御多分に漏れず親の1人として計算をしてしまう。
それは止められそうにない。
だから、「あかん、これではつまらない」と考え直して、
出てきた答えを捨てるように心がけている。
私の経験上、それはさして難しいことではない。

そもそも、私を含めほとんどの親が大した計算は
できないのだ。「私は違う」という人もいるかもしれないが。
おそらく、この人の計算なら面白いものが出てきそうだ、
と思わせるような親は、計算自体をしない気がする。

 「チャンスを掴む」と言うが、チャンスというのは、
「私こそがチャンスですよ」という顔をして近づいて
くるのだと思う。

ジャズ喫茶を始めるときも、作家になると決めたときも、
「あっ、私が会いたかった人が向こうから歩いてきた」
というような感じになったのではないだろうか。
「この人かな。やっぱり違うかな」とはならなかったはずだ。

我々がそんなことを求められていないかもしれないが、
私は子供たちにその顔を認識できる人になって欲しい。
それには、算数的な感覚よりも国語的なそれが大事に
なってくる。国語の方が算数より大事、ということではない。

成績が良くても大丈夫かな、と思わせる子供もいるし、
成績が悪くてもきっと大丈夫だろう、と思わせる子供もいる。
それは国語的な部分とかなり密接に関わっている。

もちろん、成績が良くて大丈夫だろう、となるのが一番良い。
でも、もし、上の2つのどちらかを選びなさいと迫られれば、
私は後者を選ぶ。

中学受験まで1ヶ月を切った。
例年同様、きちっと合格させられるように持っていく。
できる限りの手を打ちましたがダメでした、というのはない。
こういう時期だからこそ、余計に上のようなことを
考えるのかもしれない。

 今年は、これで最後となります。次回1月5日です。
今回だけの方も、1年間読んでいただいた方も
私の文章を読むことに貴重な時間を割いていただき
ありがとうございました。
皆様、良い年をお迎えください。

2015年12月15日 13:50:01

Vol.232 そこで止まるな!

 朝から昼過ぎまで、次男が通う
幼稚園の餅つき大会に参加し、
パワーを使い果たしたので、
今回の文章はサラッと。

 勉強において、どこで差が
つくのだろう、ということに
ついて考えていた。

いや、正確にはある現象を見て
「ああ、ここで差がつくんだな」
となった。

「勉強においてどこで差がつくか」
ということに関する円グラフがあれば、
「理解力」というのがそれなりに
大きな割合を占めることに疑いの余地はない。
しかし、それは先天的な部分であり、
かつ計測できない。IQなどの指標はあるが。

そのことについて心を砕いた
ところで前進しないどころか、
場合によっては後退することに
つながりかねない。子供が
「やってもどうせできないし」
となってしまえば大変である。

 「理解力」に匹敵するか、もしくは
それ以上のインパクトを与えるのは
「考え直しの際のロスタイムの短さ」である。

国語でも算数でも、難しい問題になれば
1回で正解するのは決して容易ではない。
算数であれば、シンプルに「答えがちゃう」
となるし、国語の記述問題であれば、
「大事な言葉が抜けてる」などとなる。

そこからが「考え直し」となる。
私が言いたいのは、そこから正解に
たどり着くまでの時間の短さではない。
あくまでも「ロスタイム」なのである。
それは2つの部分で生じる。

まずは、間違いを指摘された後。
できるようになる子は、
すぐにそれを始めるが、
そうでない子はまずそこで一息つく。

もう1つは、考えている過程において。
傍から見ていて、何をしているのか
分からない時に「今、何してんの?」
と尋ねる。大抵は「考えてる」と
返ってくるのだが、そう見えないから
聞いているのだ。

そのロスタイムの時に「そこで止まるな!」
と声を掛けるのだが、その言葉1つでどうにか
なるわけではない。でも、そこでの姿勢が
変わらなければ、できるようにはならないのだ。
だから、伝え続けなければいけない。

何も授業中ずっと集中している必要はない。
問題と問題の間で少しリラックすればいい。
そういう時に「そこで止まるな!」とは
言わない。

 中学受験をする場合でも、5年生になる
ぐらいまではできることを増やそうとするよりは、
そういう取り組み姿勢の部分に重きを
置いてあげるべきだ。

興味を持つこと、考え抜くこと、集中すること、
それに加えて、考え直しの際のロスタイムの
短くすることなどである。
そうなれば、わざわざ意識しなくてもできることは
勝手に増えていく。

目の前にあることを教えるだけはなく、
そういう部分を鍛えてあげたいと思いながら
私は生徒達と接している。

2015年12月08日 16:31:22

Vol.231 よりよい教育をより多くの人に

 潤さん、えろうすんません。
私が完全に間違えとりました。
あまりのおもろさに、一気に読んで
まいました。
と言っても1日ちゃいまっせ。
3日かかりましたが、最近にしては
めっちゃ珍しいことですねん。

潤さんとは、もちろん池井戸潤のことである。
村上春樹、池井戸潤、と来て締めは伊集院静。
大好物ばかりのメインディッシュが目の前に
ドーンと置かれた感じだが、2品食べ終わっても
食欲は増すばかり。大きくなりすぎた胃袋の
責任はいったい誰が取ってくれるというのだろうか。

そして、今朝、通勤中に伊集院静の「大人の流儀」
シリーズ第5弾『追いかけるな』を読み終えた。
この2週間で3冊読破したことになる。

20代のいつだっただろうか、ひと月で10冊と
いう目標を掲げていた。結局、7,8冊ぐらいまで
しかいかなった気がする。それをどれぐらい
続けたかも定かではない。
とにかくその頃は強い焦燥感を常に抱えていた。
こんなにも中身のないまま生きていて
いいのだろうか、という。

 池井戸潤の作品に通底しているのは、
弱者vs強者、正義vs不義という構図。
でも、不義一辺倒であった強者も、
最後には心を改める。
池井戸潤は、悪を徹底的に叩いているようで、
性善説のポジションを取っている。

どの話もある程度同じ基礎の上に
話が乗っかっている。
だから、「これも他のと似てるな」
と言えないこともない。

ラジオから桑田佳祐の曲が流れてきた。
1人の人間が作れば、自ずとパターン化する。
売れ続けるかそうでないかの差は、
パターンがどれだけバラエティに富んでいるのか
ではなく、もっと他の要素があるのだろう。

その差を決定づける何かが桑田佳祐にも
池井戸潤にもある。歌を聞きながら、
そんなことを思った。

時々、なぜ建設業界に進まなかったのか、
と問われる。建築家、つまり、デザインを
する人として一流になれる可能性があったので
あれば、その道に進んだかも知れない。
それはさておき、当時の私は、建築家が40歳でも
若手と言われるという、ただその一事を
受け入れるだけの人間的な懐の深さはなかった。

プロ野球の世界は、たとえ20歳でもあっても
実力があれば認められる、30歳にもなればベテランだ。
空っぽだった20代の私が持ち合わせていた価値観に
おいて、そのような分かりやすさは
すごく心地いいものであった。

 建築家になるだけがすべてではない。
ゼネコン(元請け)になどに就職して建築に
携わる人の方が圧倒的に多い。
大学の同級生は一浪二留(一年浪人、二年留年)でも、
スーパーゼネコンと呼ばれるところに職を得た。
これは、学歴の成せる技だろう。

カルロスゴーンは、経営者として辣腕を古い
日産自動車をV字回復させた。
失われた車種ごとのデザインの統一性
(スカイラインであれば、フルモデルチェンジしても、
それと分かるように)を持たせるなどしたものの、
功績に一番寄与したのは徹底的に原価率を
下げたことである。
下請け会社に徹底的な値下げを求め、それに
応じられないところは切った。

トヨタ自動車も、財務的な効率化を図るために、
似たようなことを行った。経営方針を
そのように転換した数年後、それは大量の
リコールという形で表面化した。

今回のマンション傾斜の杭打ち問題における
記者会見を見て、元請けの経営陣の態度には、
鼻をつまみたくなった。

実際、ゼネコンでどのような仕事が
行われているか分かっているわけではない。
いい仕事をしている人もたくさんいるだろうし、
よくない仕事をしている人もそれなりにいる
ことだろう。

就職を前にした私は、学閥に守られて
安穏と過ごし、元請けとして下請けを叩く人に
なるのが怖かった。これは、池井戸潤が悪として
描く典型的なパターンである。

池井戸潤は『下町ロケット2 ガウディ計画』の中で、
悪の権化のような人たちも、もともとは
志を持って、一生懸命仕事をし、その結果、地位や名誉を
得た。しかし、いつの間にか、結果であるはずのものが
目的化したのだ、と書いていた。

 よりよい教育をより多くの人に。
少し格好つけて言うならば、これが
志高塾のミッションステートメントである。
通りが良い表現を使えば社是となる。

「よりよい教育をより多くの人に」であって、
「より多くの人によりよい教育を」ではない。
その順番が逆転したとき、教育の質は一気に
下がる。

何もそのようなものをどこかに貼っている
わけではない。新しく仲間に加わった講師に
渡す書類のトップにそれを持ってきているだけだ。

「よりよい教育」が何であるかの
具体的な説明をすることはない。
各人が頭の片隅にそれを置き、
「自分は、よりよい教育ができているだろうか」
と問うことが大事なのだ。それは理想であって、
自発的にそれぞれがそのように自問自答することは
中々あるものではない。
だから、少なくとも私自身がそれをする。

プロゴルファーが自分のスウィングをビデオで
細かくチェックするように、私は軸のぶれない作家の
言葉に触れながら、自分自身の心のフォームが
崩れていないかの確認をする。
この2週間ずっとその作業をしていた。