学校で使用している問題集の読解問題を
解いたり、課題として出された読書感想文を
したりと、いつも自分のやりたいものを
持ってくる彼女。
今度は、毎年行われている哲学オリンピック
(高校生対象の哲学エッセー・コンテスト)に
来年友達が応募するので、自分も一緒にする
ことにした。だから、その練習をここでしたい、と
添削する俺が哲学のことまったく分かってないけど、
それで良ければ、ということを改めてことわった上で
始めることに。
出題されるのは哲学者の考えに関するものなのだが、
他の哲学者の意見などを引用しながら(つまり、知識を
活用しながら)論を展開するのではなく、それに関する
自分なりの問を立て、自ら答えを出していけるかどうかが
評価基準である、と哲学オリンピックのサイトで
述べられていた。
最終的には過去問を用いて練習することになるのだが、
テーマ自体が難しく、4000字という膨大な字数なので、
まずは準備体操からすることに。
大学院で哲学系のことを学んでいる講師に、過去問を
踏まえて問題を作成してもらった。それが以下である。
もしどんな学問もその仕事を立派に果たすのに正しい方法を
心がけているとすれば、もし優秀な職人たちが美徳という道を
重んじているとすれば、それは中庸をめざしているという
ことにほかならない。
アリストテレス『ニコマコス倫理学』より
美徳は中庸(ちゅうよう)にありとは
言っても、決して2から10までの数字が
あったなら6を選べということではない。
アリストテレスの掲げる中庸は、数量や度合いの
「中間」に行為の規範を求めるような固定した
概念ではなく、ひとりひとりで異なるものだ。
しかし、各人が時と場合で、何が中庸かを
理解するのは容易なことではない。
アリストテレスの言う「中庸」とは何か。
具体例を用いて説明してみよう。
ここまでが問題であり、
作文は次の通りである。
「もしどんな学問もその仕事を
立派に果たすのに正しい方法を
心がけているとすれば」というのは、
例えば英語ならただ漫然と問題集を
こなすのではなく、その演習を
踏まえて会話などの実用的な
何かにつなげようという
意識を持ってするのが重要である
ということだ。
次の「もし優秀な職人たちが美徳と
いう道を重じているとすれば」というのは、
例えば料理人が味だけでなく盛りつけの美を
探求し続けることだ。
「中庸を目指す」というのは、数学は抜群に
できるが国語はからっきしだめだという人は、
数学はほどほどにして国語に力を入れるべきだ、
というような「中間」を目指すというのではない。
もしその人が数学の道に進みたいのなら、
行く先々で遭遇する長文での証明や真理にふれる上で
読解力が必要になるから国語も勉強するのだ。
例えば、何かしらの目標を持った人が、それに
辿りつこうとするとき、道は一つというわけではない。
ただ、そこには必ず一直線が存在する。
その真ん中の一本道に限りなく近づけようとするのが、
「中庸をめざす」ことに他ならないのである。
まとめると、正しい選択というのは我々の
知らないうちに存在し、最後まで我々は何が本当に
正しかったのかを知らずにいるが、自分が正しいと
確信できる道を模索し続けるのが大切なのである。
いかがだったでしょうか?
上のものは、細かいところに手を加えたものの
ほぼ彼女が自身で考えたものだ。
大きなところで言えば、料理人の例えは、
もともと彫刻家として書かれていた。
彫刻家が美を探求するのは当然のことなので、
それが第一義的ではない職人として、私が
挙げたのが料理人である。
また、添削とは別に私がそのテーマに対して
考えたことを伝えた。
「2と10の間が6であるというのは、
垂直方向、つまり上下の話であり、
それに対して、中庸というのは、
水平方向、つまり左右のことである。
(優劣ではなく種類が違う、というような
ことを伝えたかったのだ)
その例えとして、パレットを思い浮かべた。
パレットには様々な色がいつでも使えるように
並んでいるが、その中でどれを選択するかは
時と場合による。使う使わないは別として、
色が並んでいる、そのこと自体が大事なのだ」と。
当時の私は、勉強も作文も、彼女の足元にも
及ばない。ただ、それ以上に圧倒的な
差があるのは、学ぶことにおける姿勢である。
こういうことに対して「勉強ができるから余裕がある」
という一言で終わらせる人がいるが、決してそうではない。
成績が良くても点数につながる勉強しかしていない子供
(別にその子供たちを悪くいう気はない)もいるし、
成績はそこそこでも学ぶ意欲がある子供もいる。
当然のことながら、その対象は作文でなくてもいい。
彼女が、先日の授業の時に、1月から受験専門塾の方が
忙しくなるので、曜日変更をしてほしい、という話をしてきた。
前回のブログでも述べたが、選択肢に入ること自体に
価値がある。結果的に続けらなかったとしても。
次はブログで何を書こうか、と考えているときに
この作文を添削した。困ったときにドラえもんに
助けを求めたくなるのび太くんの心境が分かった気がする。
一度味わうと止められない。
そして私は誓った。生徒達が私みたいにならないように
さらに厳しく指導していこう、と。すると、私にとっての
ドラえもんが増え、さらに楽できるかもしれない。
教育は人のためならず。