2015年10月27日 16:39:28

Vol.225 ドラえも〜ん

 高一の女生徒、再登場。

学校で使用している問題集の読解問題を
解いたり、課題として出された読書感想文を
したりと、いつも自分のやりたいものを
持ってくる彼女。

今度は、毎年行われている哲学オリンピック
(高校生対象の哲学エッセー・コンテスト)に
来年友達が応募するので、自分も一緒にする
ことにした。だから、その練習をここでしたい、と

添削する俺が哲学のことまったく分かってないけど、
それで良ければ、ということを改めてことわった上で
始めることに。

出題されるのは哲学者の考えに関するものなのだが、
他の哲学者の意見などを引用しながら(つまり、知識を
活用しながら)論を展開するのではなく、それに関する
自分なりの問を立て、自ら答えを出していけるかどうかが
評価基準である、と哲学オリンピックのサイトで
述べられていた。

最終的には過去問を用いて練習することになるのだが、
テーマ自体が難しく、4000字という膨大な字数なので、
まずは準備体操からすることに。
大学院で哲学系のことを学んでいる講師に、過去問を
踏まえて問題を作成してもらった。それが以下である。

もしどんな学問もその仕事を立派に果たすのに正しい方法を
心がけているとすれば、もし優秀な職人たちが美徳という道を
重んじているとすれば、それは中庸をめざしているという
ことにほかならない。
アリストテレス『ニコマコス倫理学』より

 美徳は中庸(ちゅうよう)にありとは
言っても、決して2から10までの数字が
あったなら6を選べということではない。
アリストテレスの掲げる中庸は、数量や度合いの
「中間」に行為の規範を求めるような固定した
概念ではなく、ひとりひとりで異なるものだ。
しかし、各人が時と場合で、何が中庸かを
理解するのは容易なことではない。

アリストテレスの言う「中庸」とは何か。
具体例を用いて説明してみよう。

ここまでが問題であり、
作文は次の通りである。

「もしどんな学問もその仕事を
立派に果たすのに正しい方法を
心がけているとすれば」というのは、
例えば英語ならただ漫然と問題集を
こなすのではなく、その演習を
踏まえて会話などの実用的な
何かにつなげようという
意識を持ってするのが重要である
ということだ。

次の「もし優秀な職人たちが美徳と
いう道を重じているとすれば」というのは、
例えば料理人が味だけでなく盛りつけの美を
探求し続けることだ。
 
「中庸を目指す」というのは、数学は抜群に
できるが国語はからっきしだめだという人は、
数学はほどほどにして国語に力を入れるべきだ、
というような「中間」を目指すというのではない。
もしその人が数学の道に進みたいのなら、
行く先々で遭遇する長文での証明や真理にふれる上で
読解力が必要になるから国語も勉強するのだ。

例えば、何かしらの目標を持った人が、それに
辿りつこうとするとき、道は一つというわけではない。
ただ、そこには必ず一直線が存在する。
その真ん中の一本道に限りなく近づけようとするのが、
「中庸をめざす」ことに他ならないのである。

まとめると、正しい選択というのは我々の
知らないうちに存在し、最後まで我々は何が本当に
正しかったのかを知らずにいるが、自分が正しいと
確信できる道を模索し続けるのが大切なのである。


いかがだったでしょうか?
上のものは、細かいところに手を加えたものの
ほぼ彼女が自身で考えたものだ。

大きなところで言えば、料理人の例えは、
もともと彫刻家として書かれていた。
彫刻家が美を探求するのは当然のことなので、
それが第一義的ではない職人として、私が
挙げたのが料理人である。

また、添削とは別に私がそのテーマに対して
考えたことを伝えた。

「2と10の間が6であるというのは、
垂直方向、つまり上下の話であり、
それに対して、中庸というのは、
水平方向、つまり左右のことである。
(優劣ではなく種類が違う、というような
ことを伝えたかったのだ)

その例えとして、パレットを思い浮かべた。
パレットには様々な色がいつでも使えるように
並んでいるが、その中でどれを選択するかは
時と場合による。使う使わないは別として、
色が並んでいる、そのこと自体が大事なのだ」と。

 当時の私は、勉強も作文も、彼女の足元にも
及ばない。ただ、それ以上に圧倒的な
差があるのは、学ぶことにおける姿勢である。

こういうことに対して「勉強ができるから余裕がある」
という一言で終わらせる人がいるが、決してそうではない。
成績が良くても点数につながる勉強しかしていない子供
(別にその子供たちを悪くいう気はない)もいるし、
成績はそこそこでも学ぶ意欲がある子供もいる。
当然のことながら、その対象は作文でなくてもいい。

彼女が、先日の授業の時に、1月から受験専門塾の方が
忙しくなるので、曜日変更をしてほしい、という話をしてきた。
前回のブログでも述べたが、選択肢に入ること自体に
価値がある。結果的に続けらなかったとしても。

 次はブログで何を書こうか、と考えているときに
この作文を添削した。困ったときにドラえもんに
助けを求めたくなるのび太くんの心境が分かった気がする。
一度味わうと止められない。

そして私は誓った。生徒達が私みたいにならないように
さらに厳しく指導していこう、と。すると、私にとっての
ドラえもんが増え、さらに楽できるかもしれない。

教育は人のためならず。

2015年10月20日 14:03:04

Vol.224 生徒数2倍

 生徒が少なくなると、このまま増えないのでは
ないかと不安になる。実際、今年の春は
6年生(現在の中学1年生)が多かったため
一気に減った。

広告を打つことなどもあり、問い合わせが
比較的多くなる2月から4月の期間が終わった
5月の時点では次の春までこのまま(少ないまま)
行くのではないか、というのがあった。

しかし、ご紹介をいただいたり兄弟生が通い始めて
くれたことなどもあり、ありがたいことに6月以降は
あれよあれよと言う間に増加した。

すると、今度は新たな不安が襲ってくる。
それだけの人に通っていただけるだけの価値を
提供できているのだろうか、と。

不安になったからと言って、自分に厳しくなるわけ
ではないので、そこは前回書いた、
負けるのは悔しいけど、だからと言って
努力はしない子供と似ているのかも知れない。

先の文章は、子供ではなく
自分を守るため、擁護するためのもので
あったのではないか、というような気がしてきた。

何も策を講じていないわけではない。
新しい講師が加わったこともあるが
授業に入る講師の人数を増やすようにし、
一人一人の生徒にエネルギーを注ぎやすい
状況を作り出している。

ただ、これは一過性のものであり、
生徒2人に講師1人の割合で質の高い授業が
できるようにしなければならない。

物事がうまく行ってるな、
と感じられるのはおそらく一瞬である。
この件で言えば、ある不安から別の不安に
移行する時がそれである。

不安になりたい、と積極的に思うことは
当然のことながらないものの、それを
感じているのは健全なことである。
そうは言うものの、そればかりでは
さすがにへこたれてしまう。

 志高塾を最終的に選んでいただけるに
越したことはないのだが、選択肢の1つに
入れてもらえることそれ自体に価値を感じる。
それは、親御様が子供の勉強のことで何かしら
考えたときに、「志高塾でやってもらえないか」と
なると言うことである。

結果的に、別のものを選ばれたとしても、
何かしらの悩みを抱えている時に、
それを少しでも軽減することに役立てたのであれば、
それには十分な意義がある。

一昨日、中学3年生の親御様と電話でお話をした。
その生徒から、お父様の転勤に伴い来春に海外に
行くということを聞いていた。
振替に関する電話であったのだが、
「海外に行くと聞いていますが、いつまで
続けていただけそうでしょうか」
と尋ねたところ、意外なお答えをいただいた。

行く直前まで続けていただけることに加えて、
向こうに行ってから、テレビ電話での授業が
できますか、というお話をいただいのだ。
それは、私が以前ここで書いた、
中国の生徒と授業をしている、
というのを踏まえてのことであった。

そのお母様がブログを読んでくださっているとは
思っていなかったし、そのようにしてまで
続けようと思ってもらえるのは非常に嬉しいことである。
もしそれが実現すれば、志高塾の海外の生徒は
1人から2人になる。な、な、なんと2倍になるのだ。

外部の人に興味を持っていただくことはもちろん
重要なのだが、何よりも内部の人に満足して
いただけるようにしていきたい。
たとえ、このまま生徒が増えないのではないか、
という不安に襲われ続けたとしても。

これではあまりにも格好付けすぎなので、
「でも、新しい出会いも欲しいな」という
本音を付け加えて終わりにする。

2015年10月13日 16:39:53

Vol.223 声掛け、その内容とタイミング

 親の声掛けはほぼ効果がない。
少し立ち止まって考えてみれば
分かることである。

声掛けの内容は練られたものだろうか?
そのタイミングは計られたものだろうか?
その問いに素直に答えてみる。

 「やること先にした方が楽でしょ?」
これは声掛け界のスーパースターである。
これまでもこれからも。

その座が揺るがないのは、子供に影響を
与えないからである。そのことにより、
登場の機会は一向に減らない。

子供は、未来のことなんて考えない。
今が何よりも大事なのだ。
だから、今が楽なことを優先する。

「負けて悔しくないの?」
これは準主役といったところか。

これに対して、子供は完全にノーとは
思っていない。
「悔しい」と思う子供は決して少なくない。
でも、そうならないための努力を
要求されたとき、多くの子供は
口をつぐんでしまう。

 このように書いてきたものの大人も大差はない。
本屋に並んだ自己啓発系の書籍のタイトルに
目を向ければ、いかに大人が自律しようと
思いながらそれができていないかが分かる。

20代の前半ぐらいまでは、そのような類の本を
買っていた。
それなりに正しいことが書かれているのかも
しれないが、結局は実践するかどうかが鍵になる。
本の空欄に直接書き込んでいくようなスタイルの
ものもいくつかあったが、私自身がそれをした
ためしがない。

 これでは希望がない。
どうせ無駄なので傍観しましょう、では、
この文章自体の意味がなくなってしまう。

まず、できることはスーパースターの
登場機会を激減させ、ありがたみを
もたせることである。

先日、夜に出かけようとしたら長男もいっしょに
行きたがった。でも、妻にその日中に
やりなさいと朝から言われていたことができて
いなかったので、結局二男を連れて行った。

長男は駄々をこねたので、
「こういうこともあるから、やることは
ある程度やっていた方がいい」
というようなことを伝えた。さすがにそれが
初めてではなかったのだろうが、過去に
そのようなことを長男に話した記憶はないので、
私にとって極めて珍しいことである。
その時「今は絶好のチャンスだ」と感じた。

次は心構えである。その言葉によって
子供の行動が変わるなんて思わないことである。
そうすれば「何度言ったら分かるの!」
という声掛けも減る。
そのようになると、スーパースターを
取っておこうかな、という気持ちが芽生える。

 偉そうに語っているが、
それは私が人間的に優れているから
そのようになっているのではない。
2つの点において有利な立場にあるからだ。

1つ目は、私が父親であること。
私は平均的なお父さんに比べ子供と
関わっている時間が長い。
それでも、生活に関わる細かい部分の
役割を担うのは妻である。
私は小言を言わないで済む分、大きなところに
対するメッセージに絞って発することができる。

2つ目は、私が先生であること。
我が子以上に生徒の生活に関わらないのは
当然のこと、私と親がまったく同じことを
言っても、親のときは聞かなかったのに、
先生だからという理由で私の言うことは
素直に受け入れたりする。

そのような立場であるから、少し冷静に考える
余裕がある。

 いずれにしても声掛けは難しい。
頭ではなく、心を納得させるためには
どのようにすればいいのか、
ということを考えなければいけない。
すると、隠れた名脇役の存在に気づけるかも知れない。