2015年09月29日 14:03:42

Vol.221 子供は嘘をつく

 子供は嘘をつく。
きっと大人よりもたくさんの嘘をつく。

でも、大人の方が大きな嘘をつく。
最近であれば、東芝の不適切会計や
VWの排ガス試験の不正などに
代表されるように。

 嘘は管理との連関が強い。
管理ではなく、監視の方が適切だろう。

仮に親が出かけたとする。
その間に子供がゲームをする。
帰ってきて、「何をしてたの?」
と聞かれ「ゲームに決まってるやん」と
正直に答える子供は親からゲームの時間を
管理されていない。
その反対であれば、「勉強してた」と
子供は返す。

 私は子供の嘘容認派である。
「何で嘘をつくんや」とは基本的には
言わない。ただ、いくつかの条件がある。

「相手の浮気を許せますか?」の
答えとしても顔を出す
「ばれなければ」がその1つである。

 1ヶ月ほど前に、数学の宿題で明らかに
答えを写してきた生徒がいた。その対象と
なった大問には20の計算問題があった。

おそらく、そこにはその生徒も含め5, 6人いた。
そして、私は「これ写したな」と指摘した上で、
「全部正解してたらおかしいから、おそらく
10問につき、2問ぐらいは間違えてるように
してるはずで、
(実際の番号はもちろん、覚えてなどいないが)
3番と8番と14番と16番がそれやろな」と皆に
宣言した上で丸付けをすると、結果は4問ではなく
3問間違いで、私が挙げた4つのうち1つだけは
当たっていた。せめて2つぐらいは、と思って
いたので少し悔しかった。

私は生徒達に「子供の頃たくさん嘘をついていた
俺をだませるなら、嘘ついてもいいぞ。
ただ、ばれたときはしらんで」と
伝えている。要は、上のものはその一環である。

先日、三男をあることで怒った。その「あること」
自体を忘れてしまっているぐらいなので、怒っても
怒らないでもどちらでもいいようなことではあった。
妻からも「まだ(2歳で)よく
わかってないんだから」とたしなめられた。

実際、怒る前にどちらにするかを考えたのだが、
長男と二男のためにもそちらを選んだ。
「皆に同じルールが適用されていて、
また、そのルールとは何なのか」
というのを知らせるために。

上の生徒の場合、そのような意味合いもあるが、
それ以外に、他の生徒が指摘されているのを見て、
「かっこわるいな」という感覚を持って欲しい、
とうのがある。

自分ではごまかしているつもりでも、
傍から見たら「ああ、やりよったな」と
いうのが分かる。
すると、自分も同じような状況に置かれた時の
ふるまいが変わる。

基本的には嘘をつかないでいいように、
やるべきことをやり、そうでないときは
正直に事実を伝える。
そのような状況を作り出した上で、
ここぞ、というときにばれないように
嘘をつけばいい。

2つ目の条件は、つまらん嘘をつかないと
いうことである。

「(宿題を)やったけど、忘れました」や
「やったけど紙をなくしました」という類の
ものである。

いつもはちゃんとやってくる生徒がそのように
言えば、「君が言うなら信じよう(仮に、
嘘であってもたまには認めよう」となるのだ、
そういうことを言う生徒は、日頃からよくその
セリフを口にする。

それであれば、「先生、宿題を机の上に
置いていたら、どこからかヤギが入って
それをむしゃむしゃと食べてしまいました。
にんじんとか持っていれば、防げたんですけど」
というようなことを真顔で言って欲しい。
そう言われたら「次からは、ちゃんとにんじん
用意しておけよ」と返すことができる。
ただ、毎回こういうことを言われたら、
さすがにきれるだろうが。

ことあるごとに嘘という名の言い訳をする
小学5年生の男の子が
「紙をなくしました」というのを、先日使った。

時間をかけて真剣に注意するのも面倒なので、
しばらくは授業後に残って勉強させることに決めた。
また、説教するのではなく、
「逆の立場やったら信用するか?」と尋ねた。
それは「信用しません」と答えるしかない。
その後「『しばらく』っていつまでですか?」
とあほな質問をしてきたので、「それは俺が納得したら」
で終わり。

こういうのは、罰と言えば罰なのだが、
それだけでは意味がない。このことを通して、
「くだらん嘘はつかないようにしよう」や、
「やるべきことはやらなアカン」
ということを実感して、初めて意味が出てくる。

余談ではあるが、その5年生の男の子が
問題で間違えると、
「おい、答えが嘘ついてるぞ」
と愛情たっぷりに伝えてあげることにしている。

そして、上の2つよりも格段に重要なことは、
嘘が本人の本質的な部分にマイナスに
働かないことである。

たとえば、休日に親が出かけている最中、
3時間ゲームをする。帰ってきた後に、
「勉強頑張ったから少しはゲームをさせて」
と2時間ほどやる。
ゲームのしすぎで疲れて、その日一日が
終わってしまう。なんだか体験談を
語っているような気がしてきた。

分かりやすいように1日のことを例にして書いたのだが、
別にそういう日があってもいい。ただ、そういうのが
積み重なりすぎると、「やらなアカンことが溜まってる。
また、嘘ついてしまった」となってしまう。
それが、「本質的な部分にマイナスに働く」という
ことである。

 もし、我が子が嘘をついたのであれば、
怒る前に「監視しすぎてないか?」という問いに
心の中で正直に答えてみればいい。
そうすれば、子供にどのように声掛けをするかが
自ずと決まってくるはずである。
いずれにしても「何で嘘をつくの!」は
御法度である。

2015年09月15日 14:14:31

Vol.220 ナンバーワン、オンリーワン、もしくは

 来週は1週間教室がお休みですので、
それに伴い、ブログもお休みさせていただきます。

 長男が虫歯になり、私が歯医者に
連れて行った。帰り際、受付のところで、
「よくがんばったね」とほめられ、
数ある消しゴムの景品の中から嬉しそうに
選んでいた。

持って帰ると、弟二人が興味を示した。
「貸してあげな」というと、
「がんばってもらったんだから、
それはいやだ」
というようなことを主張しはじめた。

「治療中、痛いのを我慢した」ということに
対して、「がんばったね」ということなのだが、
これはおかしな話である。

虫歯になっていない弟達はそれを手に
入れられない。まだ一人ではしっかりと
磨けない小学1年生の虫歯の責任は親にあるので
あろうが、ここではそれは横に置いておく。

きっと私が院長ならこうする。
子供に3ヶ月ごと、もしくは半年ごとの
定期検診を勧め、そこで虫歯になって
いなかった場合、消しゴムをあげる。
歯磨きを頑張った証として。

定期検診と虫歯の治療で、どれぐらい
儲けに差が出るのかは分からない。
小さくない差があったとしても、
そのようなスタンスの歯科医院なら、
虫歯の治療に来る客も増えるのでは
ないだろうか。

家の近所にあるということで、妻が子供を
そちらに通わせているのだが、私は
そこではなく他の所に行っている。

 話は変わるが、先日5年生の親御様から
問い合わせの電話を受けた。前向きな感じが
したので、迷ったが飲み込んだ。

それは「後ひとりで、5年生の募集(この
学年の中学受験が終わるまで)は打ち切りです」
という言葉。

現在の中学1年生が6年生の頃は20人ほどいて、
受験前は決して楽ではなかったので、
1学年15人までにすることに決めた。
一度でも15人に達したらそこで
募集は止めようと。
つまり、15人になった後、生徒が1人
やめたとしても、それは空けたままに
しておくということだ。

こういうことは、事前に決めておかなければ、
結局「1人ぐらいはいいか」となってしまう。
3年後もこのルールが自分の中で生きているかは
分からない。もっと1学年の人数を絞った方が
いいとなるかもしれないし、その逆もあるかもしれない。
だが、少なくとも、今の5年生が受験を終えるまで
それを変える気はない。

話を戻すと、「後ひとりですよ」というのは、
「私はあなたを思って、チャンスを逃さないように
教えてあげています」という優しさから
出ているように思うが、そうではない。
相手の判断を鈍らせる自分本位なものである。

実際、それから1週間ぐらい経つがその後連絡はない。
改めて伝えなくて良かったと感じている。
あそこで伝えておけば、もしかしたらすぐに体験授業に
つながったかも、などとはまったく考えない。

 開校当初、いや、開校を決めた瞬間から
ナンバーワンとオンリーワンのどちらを目指すのか、
というのが1つの命題として私の中にあった。
これは、ビジネスを始める多くの人が一度は
考えることだろう。

以前そのことについてブログでも書いたような
気もするが、当時、自分がどのような結論を
出したのか、その場合それはどのようなもので
あったか、などまったく記憶にない。

そして、いつの間にかそのようなことは頭から
消えていた。おそらくこの2、3年ぐらいの
ことであろう。それすら定かではないのだが。

頭から消えていることに気づいたのは
ついこの間であり、その時に
「では、何を経営の基準にしているのか」
ということについて考えてみた。

瞬間的に浮かんだのが「シンプルワン」であった。
ちなにに、ナンバーワンとオンリーワンの
「ワン」の意味は違う。
前者のそれは「1」であり、後者は「存在」である。
「シンプルワン」も「オンリーワン」のそれと同様、
「シンプルな存在」ということになる。

パッと思い浮かんだのだが、なにゆえにそれなのかを
考えてみた。
そして、自分が逆の立場でして欲しいことをする、
という点においてシンプルなのだ、というのが
着地点であった。

 このようにして欲しい、という私の感覚が
それなりに正しいかどうか、常識と大きく
外れていないかどうか、というのは分からない。
上の例で言えば、まだ小さいのだから、治療の痛みに
耐えたことを素直に褒めてあげてもいいではないか、
と思う親の方が多いかもしれない。

でも、自らの「このようにして欲しい」にできる限り
忠実に経営をしようとする姿勢は正しいはずだ。

2015年09月08日 17:10:42

Vol.219 あっち行ったりこっち行ったり

 月末に2泊3日で東京に行ってきた。

学生時代の友達と会ってきたのだが、
その多くは私と同様に幼稚園前後の子供を持つ、
子育て世代なので自然、教育や習い事の話になる。

面白いのは考えがそれなりに似通っていること。
目に見えるものを追いかけるよりも、
内面を充実させる、ということに心を砕いている。
そのように、やんわりとではあるが共有できるものが
あるから、その関係が続いているのかもしれない。

 浮世絵を見たくなって、表参道にある
太田記念美術館に行ってきた。
歌川広重と葛飾北斎は風景画の二大巨匠である。
力強い葛飾北斎よりも、歌川広重の方が見ていて
心地いい。それは今の自分にとってであり、
若い頃に見ていれば違ったような気もする。

 今回、もう1つ行きたかったのは皇居。
私にとっては、皇居というよりは江戸城跡。

恥ずかしながら、皇居が江戸城跡にあるとは
知らなかったし、東京駅からあんなに近くに
あることも知らなかった。
桜田門がそこにあることも知らなかった。

あまりにも知らないことが多いなと。
知らないこと、というのは、知っているのに
知らないこと、という意味だ。

皇居も江戸城も桜田門も名称は知っていた。
でも、それがどこにあるかは知らなかった。

途中で力尽きて皇居の周りを1周は
できなかったのだが、4分の3は歩いて回った。
そして、国会議事堂や最高裁判所がどこにあるかを
知った。それらも知っていたのに知らなかったことである。

 タイトルには2つの意味を掛けている。
東京でもあっち行ったりこっち行ったり、
文章もあっち行ったりこっち行ったり。

今回はタイトルに忠実に文章を展開している。
そう、決してまとまりのあるものにしてはいけないのだ。

 この年になると自然とそうなるのかもしれないが
以前に比べて、力が抜けたと実感できた機会でもあった。

昔であれば、友達にも「認められたい」と
思って、自分がやっていることをアピール
したかもしれない。
浮世絵に触れても、頭を働かせようと
しすぎるあまり心が反応する余地は残って
いなかったかもしれない。
知っているのに知らないことを実感したら、
「ああ知らないことが多いなぁ」で
終わらせずに、もっと知らなければと
なったかもしれない。

 良い本にも偶然出会えた。
パウロ・コエーリョの『アルケミスト』。
時間がなかったので、搭乗口の
近くの売店で急いで選んで買ったのがそれ。
たくさんの本が置いてある本屋であれば、
きっと選ばなかった気がする。

将来のことで頭を悩ませている人には
背中を押してくれる1冊である。
早速、高校生の男の子に貸してあげた。

やっぱり本は良い。
この本のテーマはすごくシンプル。
だから、短い言葉でそれを説明することは
できる。でも、そこから得られるものは
ほとんどない。
主人公の少年と一緒に旅をすることで
心に深く刻まれるのだ。

 学生時代のように、2週間ほど1人で
旅行するというのは当分できそうにないが、
今回のように、たとえ2, 3日でも1人で時間に
縛られずにぶらぶらするのもいいかも、
と感じられた東京滞在であった。