2015年08月25日 12:02:11

Vol.217 むす〜んで〜、ひ〜らい〜て〜

算数と数学の違いは何か。

算数は、結果が大事なのに対して
数学は、過程に重きが置かれる、
と答えることができる。

「結果」は答えとしての数値であり、
「過程」は証明問題などをイメージして
もらえればいい。
なお、ここでの数学は、高校までで
習うものを指している。

論理的な思考ができる人を評する際に
「理系」という言葉が使われることがある。
高校時代の私は、数学が得意で、国語が苦手で
あったために、そのような意味において、
典型的な理系人間であったと言える。

「典型的」と表現しても、おそらく無批判に
受け入れてもらえるのだろうが、
本来はおかしな話なのだ。

何を持って「理系的」と言えるのかは
難しいが、ここでは単純化するために
「数学ができる」とする。

そのように考えた場合、国語ができるか
できないかはその評価に影響を与えない。
しかし、数学と国語の落差が
「理系的」と思わせることがある。

例を考えてみる。
あるテストにおいて、
A君は、数学も国語も80点、
B君は、数学は70点で
国語が30点であったとする。

このような場合、
A君の方が、数学ができるにも関わらず、
B君の方が、「理系的」と位置づけられる
ことがある。

 ここで1つ数学の問題を出してみる。

aがすべての実数をとるとき、
ax=a ・・・@
を満たすxの値を求めなさい。

@の両辺をaで割って、
x=1
を導けばいいのだ。

こんなぐらい簡単だ、と思われた方も
少なくないのではないだろうか。
でも、上の解答では10点満点で
よくて2, 3点しかもらえないだろう。

@の式を変形して、
a(x−1)=0
としてから解く方が一般的だが、
便宜上以下のような解法を選択する。

(@)a≠0のとき
@の両辺をaで割って
x=1

(A)a=0のとき
@より
0・x=0
となるので、xはすべての実数となる

(@), (A)より
a≠0のとき、x=1
a=0のとき、xはすべての実数となる

これが数学の解答である。
(@)に関しては、説明は不要であろう。
(A)は、xにどのような値を入れても、
5であろうが、−3であろうが、
√3であろうが、0に何をかけても
0であるため、xはどのような実数でも
@の式を満たすのだ。

このように、いくつかの場合(ここでは(@)と(A))
に分けるのを「場合分け」と呼ぶ。

数学において、これまで私は
理系と文系の間に線を引いていた。
しかし、それは間違いで、
国立と私立の間にそれはあるのだ。

なお、理系と文系の数学における
一番の違いは、数V、数Cという分野を
学習するか否かである。

学習する分野の差異よりも、
数学的な解答を書こうとするか
どうかのそれの方が断然大きい。

 大学の附属高校に通っているような場合、
たとえ理系でも、数学的なものではなく
算数的な解答を書いてしまいがちだ。

先日、そのようなものを目にし、
明らかにおかしいので、
「それ数学ちゃうやん」と指摘したら、
「学校やったら、これで丸をもらえる」
と恐ろしい答えが返ってきた。

「理系と文系」も「国立と私立」も実に
大雑把な分け方なのだが、「国立と私立」
というのは2次試験で、数学の解答を
書かなければいけないものが
出題されるかどうか、ということを
分かりやすく表現したに過ぎない。

国立でも2次でそれを求められない
ところがあれば、逆に私立で求められる
ところもあるだろう。

また、最終的にどちらに進学したかではなく、
2次試験に向けて本格的に数学の勉強を
したのかどうかがポイントとなる。

 「論理的」≒「理系的」という話をした。
言い換えると、「論理的」≒「数学的」となる。

確かに、上の場合分けなどは社会に出てからも
通用するだろう。起こりうることを想定し、
それに対して1つずつ答えを出していく、
ということにつながるからだ。

私自身、数学によってそのような力は
間違いなく磨かれた。
もし私立型の数学の勉強しかしていなければ、
場合分けが必要な問題でも、出題者側でして
くれるため、そうはならなかったはずである。

 でもしかし、である。
我々が直面することは、すべてを予想できる
わけではなく、むしろそうでないことの方が多い。

そこで文系的な要素が必要になる。
ある程度自由に、
あんなこともあるかもしれない、
こんなことにもなるかもしれない、
と想像力を働かせるのだ。

膨らませたり縮めたり、拡散させたり収束させたり、
そういうことを繰り返して、最適解に
たどり着けるのではないだろうか。

「ひ〜らい〜て〜、むす〜んで〜」
の方が適切なような気がしてきた。

2015年08月18日 06:24:40

Vol.216 大事なのは、いつでもその他のこと

 2年生の3月から通ってくれている
現在5年生の男の子がいる。

志高塾では、夏期講習の期間に限り
漢字コースというのを設けている。
約1ヶ月で1年間分(3年生なら3年生で
習う分)を覚えてしまおう、というのが
その狙いだ。

授業をして漢字の意味を教えることはない。
家で勉強をして来てもらい、教室では
テストをするだけである。不合格であれば、
そこから30分、1時間と勉強して再テストと
いうことになる。あまりにもやり方が
いい加減な生徒は別の日に呼び出すこともある。

このコースを設けているのには、
主に2つの理由がある。

進学塾が「想像力を育む」や「思考力を磨く」
などという心地よい謡い文句で宣伝するような
夏期講習限定のコースを取るぐらいなら、
地道に漢字を勉強したほうが余程価値があるからだ。

もう1つは、どのようにすれば完璧に、もしくは
それに近い状態で覚えられるのか、というのを
体験してもらいたいからだ。

 「想像力を育む」や「思考力を磨く」というのは、
我々も重要視していることである。
それにも関わらず反対するのは、そのようなものは
一朝一夕で身につくものではないからだ。

考えてもみて欲しい。周りにそのような魅力的な
人がいたとする。その人に、
「想像力豊かですけど、それはどのように
して手に入れたのですか?」と尋ねたとき、
「それは、小学4年の夏休みに、進学塾の
そのようなコースに参加したから」
となることはない。

 さて、その男の子、3年生の頃から
3年連続でそのコースを受講してくれている。
当初、親御様から「とにかく暗記が苦手で」
というような話をうかがった。

この手の話はとにかくよく聞く。
しかし、九分九厘ゲームやアニメのキャラクターの
名前であればちゃんと頭に入るのだ。
その子に関してはサッカーが好きで、選手の名前は
きちんと覚えている。

3年生のときは50点を取るのもやっとであったが、
最近では勉強をやりさえすれば合格点の80点ぐらいは
取れるようになった。しかし、家でやってこないのだ。

あまりにひどいので、問いただすと
「他の塾やその宿題が忙しくて」と返ってきた。
そんな訳はないのを知っているので、さらに
問い詰めて、最終的に
「しょうもない言い訳すんなや」となった。

通常は最大でも授業後90分しか残さないのだが、
その子に関しては「次回、不合格やったら5時間
残すぞ」と伝えた。

奮起を期待したのだが、結果それはあっさりと
裏切られた。
こういうのはとにかく腹が立つ。きっと、毎日
1時間勉強しても不合格やったらどうせ残されるから、
それであれば家で勉強などせず残された方がいいわ、
とでも考えたのだろう。

私は、アメもムチも好きではない。
にんじんは人にぶらさげてもらうものではなく、
自ら一旦それをゴールに置きに行って、それを
自らの手で再度掴む、というのがあるべき姿だと思う。

別に漢字ができたからと言って、人生の道が
切り開かれるわけではない。
1年間分の漢字を覚える、というのが見かけ上の
目的なのだが、その過程を通して、やればできることや、
やってできなければどうしたらそれができるように
なるのか、ということを経験し、学んで欲しい。

 これで3回連続野球の話になるが、
松井も清原も、プレイヤーとしてはともに
輝かしい結果を残した。しかし、引退後の現時点に
おいて、2人の歩む道には雲泥の差がある。
人間性の差がそれを生んだと言える。

何かしら人を評価するときに
「彼(もしくは彼女)の本当のすごいところは」
となることがある。

「本当の」というのは何か。
それは表立って出てくる部分とは別の、
ということなのだが、実際はその隠された部分が
表立って出てくる部分を下支えしている。

 漢字を覚えたり、
作文がうまく書けるようになったり、
読解問題でより得点が取れるようになり
受験に合格したり。
価値の差はあれどれも大事なことである。

でも、それを手に入れることの他に何が
得られたのかは、その何倍も重要である。

「その他のこと」を大事にするというのは
「それ自体」を疎かにすることではなく、
むしろ、「それ自体」をより高めてくれるものである。

「その他のこと」が乏しい「それ自体」に
私は何の魅力も感じない。

2015年08月11日 10:21:26

Vol.215 スポンジ、スポンジ、ス

 前回話題にした早稲田の清宮に
関する話を少々。見事1回戦を突破し、
本人も1本ではあったが目の覚めるような
当たりのヒットを打っていた。

その試合、テレビの解説に呼ばれて
いたのは、松井の高校時代の監督であった。
彼が「松井2世」と呼ばれているため、
そのようになったのかもしれない。

その元監督が、2打席終えた時点で
「もっと全力疾走をしなければならない」
というようなコメントをしていた。

1打席目はフライアウトで、2打席目はデッド
ボールであったため、ゆっくり走っても結果に
変わりはなかった。

松井はプレイが一流であったことに加え、
人格者としても知られている。
幼少期からそのように育てられたというのも
あるだろうが、高校時代、さらにそれに磨きが
かかったのであろう。

 さて、本題。

「こういう塾なら行かせたい」、
「あの塾に行かせて良かった」と
親御様に思っていただきたい。

そして子供達にも、将来
「志高塾に通って良かった」と
思って欲しい。

我々の塾がどちらのカテゴリーに
入るかはさておき、そのような塾は
決して多くはない。

それゆえ、自分の息子達を積極的に
他の塾に通わせようとは考えていない。
だからと言って、自分が横について
みっちり教える予定もない。

そのようなことが可能かはさておき、
教材選びぐらいはして、後は子供自身で
どうにかする、というのが
私が理想とする1つの形である。

理想と現実は違う。しかし、現実から
理想に近づけるよりも、理想に現実を
加味する方が、より望ましい結果になる、
というのが持論である。

座して待っていてもそのようにならない。
4年生ぐらいになるまでに伝えられることは
伝えてあげたい。その年にもなると
親の言うことなど聞かなくなるからだ。

だから、今、子供との時間を多く取って
たくさん会話をするように心かげている。

 私の母はケーキの先生を、60歳を過ぎた
今でも続けている。自宅で行っているので、
子供の頃はその様子を見る機会があった。

母が何気なく行っているデコレーションも
生徒の方がすると、それとは別のものに
なることも少なくなかった。

それよりも不思議だったのは、正確には
そういうものなのか、と感じたのは、
教室で実践し、持ち帰ったレシピ通りに
家で作ってもスポンジがうまく膨らまない、
という相談の電話があり、
母がそれに応えていたことだ。

タイトルからも分かるように、関心があるのは
スポンジの方である。
おいしそうで、つまりデコレーションは上手で、
食べてがっかりするよりもその逆の方が良いに
決まっている。両方が揃っているに越したことが
ないのは言うまでもない。

もう1つの理由は、どのようにデコレーションを
するか、チョコレートなのか、生クリームなのか、
その他のものにするのか。そして、その上に何を
載せるのか、というのは本人が決めるべきことで
あるからだ。

その時までに、おいしいスポンジを作っておくための
手助けをするのが、我々がやるべきことである。

言い換えれば、たくさん吸収できるスポンジに
なるよう育ててあげるということになる。

さらに、スポンジで例えるなら、
えーっと、うーんと、・・・。